「おかあしゃま~、おかあしゃま、みてみて」
もうすぐ四歳になる娘が、小さな掌に沢山の野花を山のように乗せて駆け寄って来る。
旦那様に似た輝くばかりの黄金の髪が、陽光を跳ねさせてまた光として撒き散らし、手から零れる色とりどりの小さな花が、それに華やかな彩りを添える。
我が子ながら、こんなにも愛らしいものがこの世にあるのかと、思わず笑みが零れてしまった。
「あらあら、まあまあ」
屋敷の裏手にあるこの丘に出掛けてくる前は侍女に綺麗に結い上げられていた髪が、ところどころ解れて風に舞っていた。
同じく黄金の長い睫毛はぱっちりと上下に開かれて、マロン色の愛らしい瞳が、母を目指して駆け寄る事への純粋な喜びを表している。
「お嬢様、転びます!」
「お嬢様~、お花は私どもが運びますからぁ」
風に攫われそうになる花に気を取られて、時々足をもつれさせる娘の様子に、後ろから叫びながら追いかけてくる侍女達は、
「だいじょうぶだもん。じぶんであげうの」
仕える娘にそう言われれば、気後れして厳しく制する事も出来ないまま、毎日がこんな調子で翻弄されているようで、
「そろそろ、どなたかご指南役の夫人を尋ねる必要がありそうね」
まだ家庭教師をつけるには早すぎると、娘を溺愛している旦那様はそうおっしゃっていたけれど、貴族令嬢としての立ち居振る舞いは早いに越したことはない。
可愛い子の事を思うなら、午前中だけでも授業が行われるように図らうべきだと、旦那様に進言してみよう。
「おかあしゃま。このあかのおはなはおかあしゃまの」
僅かに息を切らしながら、蹲った私と同じ目線の高さで目を輝かせてそう言った娘に、私は楽しくなって目を細める。
「それじゃあ、この青は誰かしら?」
「あおはおとうしゃま!」
「ではこの黄色は? お兄様かしら」
「にィしゃまじゃないの。きいろもおとうしゃまの」
「まあ、ふふ。お兄様は泣いてしまうわね」
何気なく告げると、わたくしの可愛い子は途端に悲し気に薄い眉を寄せた。
「にィしゃまには…」
自分の掌の中をあちらこちらから覗き見て、
「しろ! にィしゃまにはしろをあげゆ」
「お兄様は白なのね」
自分の出した答えに満足したのか、憂いを払って満面の笑みを見せた可愛い子は、また手の中の花に夢中になった。
色で取り分けている小さな爪があまりにも愛らしすぎて、
「奥様。そろそろ夜会のお支度を」
「そうね」
侍女に声をかけられて、この優しい時間の小休止に心底から残念だと肩で息を吐く。
社交はあまり好きではないけれど、苦手というわけでもない。
侯爵である旦那様に嫁ぐと決まった時に、お力になれることは全力で頑張って行こうと決めたのだ。
かつてはコルベールの名門と呼ばれたラビヨン元侯爵家である実家は、二代前でその爵位を王家に返上し(念のため、ご先祖様の爵位返上は決して不名誉な事ではなく、当時はさすが王家の僕(しもべ)と評された行動であった事は割愛しつつ補足しておく)、残った男爵位を誉として、田舎の小さな所領を護るだけの貴族となった。
叔母に誘われた大きな茶会で、当時、既に若き侯爵として未婚の淑女達に騒がれていた旦那様に出会い、幾度かの偶然も重なった逢瀬を経て求婚された時は、身分(それ)を理由にお断りをしていたけれど、それでも旦那様は諦めてはくださらず、
”妻となる者にそのような大役は求めてはいない。貴女が人生を伴侶として共に歩んでくださるのなら、ただ屋敷にいて私を出迎えてくれる、それだけでも構わないのです”
短いながらも、政略ではあったが仲睦まじいご両親に育まれた記憶がある旦那様は、その優しい家庭というものに憧憬があり、妻を選ぶ基準はその理想に足る人柄かどうか、共にいて幸せで安らぎを感じられる人かどうか、その点に重きをおいていたらしい。
だからこそ、侯爵という身分にしては珍しく、二十歳を過ぎた当時まで婚約者を決めずにいて、
”貴女が良いと、頭ではなく、心が思うのです。アルレット”
”侯爵様…”
その求婚の言葉を聞けば、女心が反応しないわけもなく。
”わかりました。謹んでお受けいたします。ですがわたくしにも、共に生きるお手伝いはさせてくださいませね。前侯爵夫人には及ばずとも、貴方が恙なくお過ごし出来るよう、妻として励みたいと思いますから”
”ありがとう”
それからずっと、出来る限りの努力をして侯爵夫人を務めあげてきた。
優しい旦那様は何年経ってもいつも私の肩や腰を引き寄せて愛を伝えて下さって、社交界は海千山千、辟易するような出来事も少なくはなかったけれど、私生活は幸せいっぱい。
いつか、この可愛い子もそういう運命の殿方に出会って、厳しい淑女教育を頑張って良かったと、自分を褒める日が来る筈だから。
「旦那様。わたくし達の可愛い子を、幸せにする為の新たな一歩ですわ」
きっと、娘をお嫁になどやりたくないと考えている旦那様の眉間には深い皺が寄ったけれど、結局は私に頷いて下さり、
「分かったよ、アルレット。君の願う通りに」
その次の月から、娘には家庭教師がつく事になった。
――――――
―――――
「お母様! ご覧になって! このお花!」
もうすぐ七歳になる娘が、少女らしくなった手に切ったばかりの花の束を掴んで走って来る。
腰まで伸びた黄金の髪は高く結わえ、一歩進む毎に左右に揺れて、その度に、光が戯れるように辺りを照らす。
我が子ながら、将来がとても楽しな子だと、思わず笑みが零れてしまった。
「あらあら、まあまあ」
教師がついてからというもの、髪を乱す事は流石になくなったけれど、
「お嬢様、転びます!」
「お嬢様~、お花は私どもが運びますからぁ」
後ろから叫びながら追いかけてくる侍女達は、状況が好転したとは思っていないだろう。
「大丈夫! これくらい自分で運べるの。お母様! はい。赤いお花をさしあげる」
「ありがとう」
「白はお兄様に」
「綺麗ね」
「青はお父様よ」
「黄色はどうするの?」
「黄色は…」
無邪気さの中に、少し変わった事があるとすれば、黄色の花を誰にもあげなくなった事。
理由を尋ねれば、特に黄色の花が好きだというわけでもなく、ただ、手放したくない気持ちになるのだという。
「うーん、またお部屋に飾ろうかな」
「そう…」
「あ、えっとね、黄色のお花があると、お部屋が明るくなった気がするの」
私の可愛い子は、頭が良いだけではなくて、要領も良く、そして人の思考の機微に敏い子で、
「お嬢様は、マナー以外は大変優秀でいらっしゃいます」
引き攣った教師の言葉に、私も旦那様も肩を竦めるしかなかった。
そんな風に溌剌とした幼女時代を過ごした私の可愛い子が突然変わったのは、八歳の時。
王都から所領の屋敷へと避暑に移り、そこで隣国ロバトの公爵子息を縁あって二週間程お預かりする事になった夏の事。
「レオンシオ様。はじめまして、アルレットと申します。まあ。主人から聞いていた通り、とても素敵な髪の色をなさっておいでなのですね」
応接室で相対した青年に、私は親しみを込めてそう言った。
艶やかな黒髪の中に、蒼穹を混ぜた神秘的な色合い。
眼差しは透き通った水色で、整った顔立ちが華やかな雰囲気を放っている。
「ありがとうございます。侯爵夫人。どうかレオンとお呼びください。従者共々、暫くお世話になります」
「とんでもない。ロバトからこちらまで大変な長旅でしたでしょう? 王都へはまだ距離がございますもの。出立まで、十分にお身体を休めていただける場所となるよう、屋敷の者で精一杯努めさせていただきますわ」
「感謝いたします」
「どうかおかけになって。今お茶を用意しておりますから」
「お言葉に甘えて」
示されたソファに腰を下ろし、ロバト国スリナーチ公爵家の嫡男、レオンシオ様は眉間を寄せながら唇の端を少しだけあげた。
「それにしても、夫人までがそのようにおっしゃるとは…。ロバトでは少なくない髪色なのですが、この国では珍しいのか、よくそのように声をかけていただき驚いております」
「まあ。誰もレオン様にその所以をお伝えにならなかったのですか?」
「ええ。…この髪の色に何か曰くが?」
今年十七におなりだというレオンシオ様は、その美しい顔を少し傾けて私から答えを欲していた。
眼差しから、秘密を食みたいと望んで少し開かれた唇から、そして繊細な指先の所作から、ただならぬ色気が垂れ流し。
これが意図的ではなく天然とするなら、あまりにも女性に対して罪深いお方だと思う。
なるほど、女誑しとの悪しき評判を払拭せよと、公爵家(じっか)から留学の名目でコルベールに渡らせたという理由に頷けてしまった。
「その御髪(おぐし)が我が国で目立って当然ですわ、レオン様。黒に差す青の髪。それは、平定の始祖と呼ばれる第二十八代コルベール国王陛下、シルベストル様と同じ、この国では至高のお色なのですもの」
「…なるほど」
レオンシオ様は大仰に頷いて、それから微笑まれる。
「では女性の甘やかしい視線が私に注がれるのは、偉大なるシルベストル・コルベール陛下の御威光を借りた効果というわけですね」
「まあ。ご謙遜を。髪のお色の事がなくとも、その煌びやかな笑みだけで、我が家の者達はもう骨抜きですわ」
普段は真面目な侍女達が顔を真っ赤に俯いているのを示して揶揄(からか)い、レオンシオ様と目を合わせて笑い合った時だった。
「お母様! お客様?」
「お嬢様! なんという無作法を!」
教師の声に追われながら部屋に入ってきたのは、最近好んで着るようになった青いドレス姿の私の可愛い子で、
「おや。そちらの小さな|淑女(ダーマ)はどなたかな?」
流した目を細めたレオン様は、それは眩しい程の美しさを見せつける。
「……」
まだ思春期でもない娘は、さすがに侍女と同じような反応はなかったけれど、
「レオン様。これは私の娘ですわ。リアーヌ。こちらへ」
まずは紹介をと、手を伸ばして呼び寄せてもいつも通りに駆け寄ってこない可愛い子を見れば、
「リアーヌ?」
いつもは無数の光を宿しているマロン色の瞳が、今にもひっくり返りそうな程に忙しなく動いている。
「…夫人。ご令嬢の様子が――――――」
レオンシオ様が怪訝な顔をして腰を浮かせた瞬間、
「シル…ベストルさ」
「リアーヌ!」
「お嬢様!」
か細い声で紡がれた不可思議な言葉と共に、娘の小さな体は、固い絨毯の上に崩れて倒れていた。
――――――
――――
「やあ、セニョリータ。今日のご機嫌はいかがかな?」
「…おかげさまで、朝食も美味しくいただきました」
「それは良かった。夫人も安心ですね」
「え、…ええ」
王都から日数をかけて送られてくる新聞を読みながら、優雅なブランチのひと時を過ごす事が日課となっているレオンシオ様の近くには、今流行りの小説を読みながら、時折彼を盗み見るリアーヌの姿があるのが日常となった。
勉強はともかく、マナーのレッスンやダンスの練習などは厭う傾向にあったのが嘘のよう。
日を追うごとに、リアーヌの姿勢は美しくなり、動きは優雅になり、所作は指先まで細やかになり、母親である私が見惚れてしまう程、あどけない幼女が可憐な少女へと変貌していく。
そのマロンの眼差しはレオンシオ様の髪の色を良く見つめていて、
「レオン様は、薔薇はお好きですか?」
「ああ。好きだよ。ロバトには夕暮れを映したような美しい薔薇の品種があってね」
「…黄色は、お好きですか?」
「黄色の薔薇は少し苦手かな。ご婦人方が、よく自分の気持ちだと贈って下さるのだけど」
黄色の薔薇は嫉妬ですものね。
思わず、口から出そうになって咳払い。
そんな私の心情に気付いてか、レオンシオ様が「失礼」と片眉を上げて伝えてくる。
「リアーヌ嬢は、黄色の花が好きなの?」
「…はい。わたしは、チューリップが好きです」
「黄色のチューリップか…。花言葉には良い面と悪い面、どちらもあるけれど、恋人達には意味深な花だね。それとも、コルベールでは多少違うのかな。――――――リアーヌ嬢は、どうしてチューリップが好きなの?」
「…大切な方に頂いた事があるので」
「そうか。うん。そうだね。花言葉より、そちらの方が意味を持つ事もある」
「はい」
誰か、リアーヌに黄色のチューリップをあげた方がいたかしら…?
不思議に思いながらも、
「まるで人が変わったようですわ…」
不安気に溜息を吐きつつ、眉根を寄せて続けられた教師の言葉に、私の思考はすっかり上書きされてしまった。
「昨日からは、あんなにお嫌いでいらした貴族年鑑を真面目にご覧になって…、恋とは、かくも人を変えてしまうものなのですね…」
「恋」
「そうですわ、奥様」
「恋…」
恋。
私の可愛い子が。
旦那様の、可愛い子が――――――。
「これはきっと、リアーヌ様の初恋ですわ」
少し興奮気味の教師を他所に、私は頭を悩ませる。
「…王都にいらっしゃる旦那様に、どのようにお伝えしたものかしら」
四六時中とは言わずとも、常にレオンシオ様を見つめていたリアーヌは、もしかしたら王都へと出立する際になれば、大きく泣きだすのではないかと懸念していた。
自分も王都までついていくと、どうせ来月には行くのだから、一緒に行ってもいいのではないかと、そんな駄々をこねるのではないかと密かに準備すらしていたのに、
「リアーヌ嬢。王都で再会出来るのを楽しみにしているよ」
「はい。レオン様。お気をつけて」
その時がきてもリアーヌは静かに彼を見送った。
まだ小さい体に、どんな想いを詰め込んでいるのかと、母としては心配が大きかったけれど、
「リアーヌ。わたくしの可愛い子。大丈夫?」
「はい。お母様。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「リアーヌ…」
「お母様。お願いがあるのです」
「…何かしら」
これまで見た事もないリアーヌの気迫に、私も自然と背筋を伸ばして娘の顔を見下ろしていた。
「もっと沢山の勉強をさせていただきたいのです。お父様に、家庭教師を増やしていただくようお願いしてもいいでしょうか?」
「まあ…リアーヌ、あなたはまだ八つなのよ? 年相応という範囲で…」
説得しかけた私は、けれど言葉を呑み込む事になった。
マロン色のリアーヌの瞳が、あまりにも真剣で、必死だったから。
「九つの年の差があるのです。わたしが成人する頃には、きっともうご結婚されていらっしゃる…」
「…それは、レオン様の事?」
「違います」
リアーヌは、小さく首を振った。
「あの方じゃない」
「リアーヌ?」
「…でも、いつか出会う方の為に――――――」
娘のあまりの変わりように、少し恐怖が無かったと言えば嘘になる。
それでも、話せば私が産んだ可愛い子には違いない。
レオンシオ様に出会った事で、娘の何かが急に成長したのだとしても、それは恐ろしい事ではなく、誇らしい事だと捉えるべきだ。
花言葉の良い面と悪い面。
それを考えるより、誰があげたか、それが重要。
思い出されたレオンシオ様の言葉に、感服する。
そう。
良い方、悪い方、娘がどちらに変わったとしても、私の可愛い子には違いないのだから。
――――――
――――
「お母様。ジェラルド様がいらっしゃったわ」
声を弾ませてそう言ったリアーヌは、まるで幼い頃に戻ったような明るい笑みを見せていた。
「直ぐに行くわ。貴女は殿下をお迎えして」
「はい」
真っ白な花嫁衣裳に刺繍をしていた手を止めて、私はソファから立ち上がる。
淑女の鑑と呼ばれていた頃のリアーヌも誇らしかったけれど、心からの笑みを浮かべて、好きな人に会える喜びを隠しきれないリアーヌの様子もまた誇らしい。
「奥様、パビリオンにお茶のご準備が出来ました」
「ありがとう。ご挨拶が済んだら直ぐにお誘いするから、抜かりなくね」
「かしこまりました」
家令とのそんなやり取りの後、迎賓用のドレスを従えて二人が待つ玄関へと身を進めて行くと、次第に婚約者同士の会話が耳に入り始めた。
「…ジェラルド様、どうかもうおやめ下さい」
「どうして? 恥ずかしがらないで、リアーヌ。貴女がそんな顔をすると、僕の理性が音を立てて崩れてしまう」
「もう直ぐ母が参りますから…ぁ、ジェラルドさ」
「可愛い、リアーヌ、本当に僕をどうしたいの」
「ジェラルド様…」
「それじゃあ、額にキスだけ。それなら構わない?」
「…ぅ、はい…」
婚約が確定してからというもの、人目も憚らずに愛を囁き合う二人は、既にこの屋敷の名物。
遠巻きに控えている侍女達も、見ない振りをしながら、興味津々で視界の端に眺めているのが良く判る。
「リアーヌ。幾ら僕が贈った花だといっても、そんなに視線を奪われると、嫉妬してしまいそうになる」
「ジェラルド様…」
「お願いだから、僕以外のものをその瞳にあまり長く映さないで」
「…でも、ジェラルド様からいただいたお花ですもの。眠りにつく時も、傍において見つめて居れば、夢の中でお会いできそうな気がして…」
「リアーヌ」
「ジェラルド様…」
黄色いチューリップに顔を埋めるリアーヌは、幸せに蕩けそうな笑みを浮かべていて、
”わたしは、チューリップが好きです。大切な方に頂いた事があるので…”
「ああ…、あれはそういう事だったのね…」
昔、レオンシオ様に話していたのは、リアーヌの前世であるロゼールさんが、シルベストル王に貰ったものだ。
卒業を祝う夜会(ソアレ)の前日に聞いた話と、思い出した遠い過去のワンシーンが私の中で突然に符合した。
私の可愛い子は、その二百年という時を経て、今漸く、幸せを掴もうとしているのだ。
その実感が、急に沸々と湧いて来る。
そして、その幸せを末永く確かなものにする為には。
「未だ正室のいない、シルベストル王と同じ髪の色を持つレオンシオ様が初恋の相手だなんて、殿下には絶対に知られないようにしなくては。――――――いざ」
可愛い子の幸せを護ろうと握った拳をそのままに、私は、遠巻きの侍女達すら目を逸らす程に接近している二人の前へと、気合を入れて飛び出した。
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