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リアーヌ⑰
――――――
――――
「ああ、さすがは私の妹だ。お前がこの中の誰よりも綺麗だよ、リアーヌ」
「お兄様・・・」
兄の緑の目《レジュ・ヴェール》を上目で受け止めて、私は、素直に嬉しさに心を躍らせてから直ぐに、デビュタントの時に母が楽しそうに私に伝授してくれた、結婚相手を探している殿方に特に有効だという”ゆったりとした笑み”を作って返した。
「ありがとうございます。お兄様に褒めていただくと、とても自信がつきますわ」
すると、この笑みの真相を知っている兄は小さく唇の端を上げる。
「私の言葉は家族の贔屓目から出たものではないよ。――――――特にこの青は、何よりもお前の清廉さを引き立てる」
「え?」
示されたのは、ドレスの胸元に濃く染められた美しい青。
母と相談して、夜会(ソアレ)にと選んだこのドレスは、白を基調とした青を含む泡の色合いの生地で、腰から裾までのラインを贅沢に広げたデザインで仕立ててもらった。
スカート部分は、私が動かなければストレートに真っすぐに床に落ちて、一見は真っ白。
けれど、たっぷりのドレープの内側には青が隠れていて、ゆったりと歩けば花の蕾が風に揺れるように白の光沢が波を打ち、回ってドレスの裾が広がれば、まるで花開くように隠れていた青が現れるという幻想的な作りになっている。
母と趣向を凝らして作り上げたこのドレスはこれまで誂えてきた中で一番のお気に入りとなり、ジェラルド様のお色を纏えないのならせめて、シルベストル様のお色で学生最後の夜会(ソアレ)を楽しみたいと、我が儘を通させてもらった私の欲の象徴でもある。
「・・・相応しい・・・のでしょうか、わたくしは」
清廉。
透き通るような清い美徳を現すその言葉に、かつて死ぬ間際までそっと恋焦がれたシルベストル様の青が引き合いに出されて、私の心に小さく影が灯った。
結ばれる事がないのならせめて、思い出の色だけでも、と。
そんな欲望を明らかにしているのがこのドレスだ。
美しく現れる健やかな青には相反して、私の内側に蔓延っていた私欲が、醜く暴かれたような気さえする。
「どういう意味かな? リアーヌ」
碧眼に僅かな厳しさを湛えたような気がする兄に、私は苦笑した。
「・・・わたくしは、お兄様が思うよりも業突く張りですわ」
「お前が?」
「はい」
「ふ――――――、馬鹿な」
高い位置から一笑に付した兄が、肩前に残した私の金色の髪を指先で撫でた。
「手が届く果実を強請る事もしない女は、業突く張りの異名を、得る事も語る事も出来やしないよ、リアーヌ」
「え?」
僅かにも唇を動かさない程の、潜めた兄の小さすぎる声は私の耳には届かなくて聞き返してみたけれど、
「・・・いや。何でもない。――――――そろそろだね」
何も特別ではなかったという表情(かお)で手を差し出されれば、私は頷くしかない。
「はい」
卒業生達が、それぞれのパートナーを伴って、順に花道を通ってフロアへと軽やかに乗り出していく。
隣の列にはバジェス公爵令嬢であるフランシーヌ様が従兄のアンリ様と並んでいる姿も見えて、王太子殿下との複雑な関係を反芻させられた。
王家に生まれし者――――――そしてそれを護るための礎として存在する貴族に姓を受けた者達も、人としての想いはいつも、彼方に置いたままでしか生きられない。
シルベストル様が数多の女性をお傍に娶られたように、・・・かつてロゼールが、情さえ向ける事の出来なかった方の妻となって四人の子を産んだように・・・。
ふと、肩越しにこちらを向いたフランシーヌ様と目が合って、私は慌てて沈みかけていた気分を変えた。
互いに小さな会釈を交わし、それから兄を見上げる。
貴族において、今最も結婚相手として輝いていると令嬢方の視線を集めるこの美しい兄は、実はフランシーヌ様に叶わぬ恋をしていると、そんな噂が流れたのは、私やフランシーヌ様のデビュタントの年だっただろうか。
兄妹揃って望みの無い恋をしていると、涙交じりに浮かべた自嘲を覚えているから間違いなくその頃だ。
『まだ心動かされる女性には会えないのか? リシャール』
慌てなくていいとは言ったが、まさか二十四を数えるまで婚約者すら決めずにくるとは流石に想定していなかったらしい父からの苦言に、
『まずは、私がお仕えする方に幸せになって頂いてからでないと』
素晴らしい忠義にも聞こえるけれど、それはつまり、王太子にバルネヴェルト国の王女が嫁いでこられた後、想い人であるフランシーヌ様が側妃に収まってからという意味なのだろうと私は勝手に呑み込んで、以来、兄の結婚についての話題は出来るだけ両親からも庇っている。
「さあ、お前の番だ」
「はい」
私は、慣れた兄のエスコートで予め示された赤絨毯の道を難なく進んだ。
「凄い拍手だ」
「お兄様の人気のおかげですわね」
「お前の美しさへの評価だよ」
「では、わたくし達デュトワ兄妹への賞賛という事にいたしましょう」
華やかな舞台に気分が上がるのは仕方ない。
いつもより弾んだ口調でそう応えると、
「そうするか」
兄はクスクスと笑って頷いてから、改めて顔を上げた。
「・・・ああ、ジェラルド殿下は主催(オト)に廻られたのか」
「え?」
決められた位置について姿勢を整えた途端、そんな兄の言葉を耳が拾ってしまって、思わず王族席へと視線が上がった。
目に入ったのは、王太子殿下の下座に立つ、本来なら卒業生としてこちら側に在るべきジェラルド殿下で、
「・・・ぁ」
その筈で・・・。
「ジェラルド殿下・・・?」
あれが・・・?
無意識の内に、現実を確かめ直そうと目を凝らしてしまっていた。
赤が差さった美しい黒髪。
稀有な宝石と見紛う赤黒い瞳。
その特徴はこれまでと同じだったけれど、最後に見かけたのはいつだったか。
確か、学園の中庭でお見掛けしたのが最後で、その後は公務で国内にはいなかったから、姿を見るのも久しぶりだ。
あれから半年。
たった半年。
恋に目覚めた令嬢が急に見違える事はあったけれど、男の人もこんなにも、少年から一気に変貌するものなのか。
学園の同級生の男子には感じた事のない驚き。
半年という間を空ければ、見知った同級生でも同じように驚く結果になったのだろうか。
混乱が、私の中に渦となって生まれている。
「――――――ああ、リアーヌは殿下を見るのは久しぶりだったね」
言葉を失くして立っていた私に、兄が少し屈んで話しかけてくる。
「ええ・・・、この半年は、陛下の勅命でカーリアイネン帝国を訪れていたと」
そして、隠されていた皇女と仲睦まじくなったという事も、噂で聞いていた。
まだ正式に布告はされていないけれど、一年後を目途にその方との婚姻が整うという事も。
「随分と、男らしくなられました・・・」
殿下を、このように見目麗しく成長させたのは、やはりその皇女と恋なのか。
二年前に再会した時、まだ少年っぽさを残していたあどけない王子が、いつの間にか私の知らない世界へと歩き進み、すっかりと手の届かない存在になっていた事を思い知らされる。
「それは、リアーヌの目に適ったという事かな?」
「え?」
悪戯っぽく微笑んだ兄に、私もまた改めて息を吐き、目を細める。
「申しましたでしょう? わたくしは、どなたの事も望みません」
胸は痛いけれど、これはきっとロゼール・ラフォンとしての痛み。
ジェラルド殿下がシルベストル様だと思うからこそ、望めなかった恋しい人を思う、ロゼールの心・・・。
涙は浮かぶけれど、悲しみはあるけれど、ジェラルド殿下が幸せになるという事は、シルベストル様の魂も救われる。
そしてそれは、かつてのロゼールが願った幸せにも結びつき、まだ過去の想いしか知らない私には、きっと耐えられる、乗り越えられる試練の筈。
「もちろん、いつか素敵な殿方に巡り合うかも知れませんが」
「ではその時までは私が責任をもってお前をエスコートしよう」
「ぜひお願いしますわ。お兄様」
昨夜、母には全てを打ち明けた。
私がかつて、このコルベールで生きた記憶を持っている事、当時の王であるシルベストルと淡い恋を育んだ事、お互いに波乱があり、それは望みなき恋として終焉した事、その後、故郷に戻った私は政略で嫁いだ事、――――――決して、幸せな婚姻ではなかった事・・・。
母は、まるで小さな子をあやすように私の髪を撫でながら、時には涙で言葉にすら出来なかった私の声を漏らさぬようにと真剣な顔で拾ってくださって、
『なら猶更、今度こそ、リアーヌは幸せにならなければね、ロゼールさんの魂も一緒に』
『・・・一緒に・・・?』
『だってそうでしょう? あなたは私の子、デュトワ家のリアーヌなのよ。ロゼールさんに成る為に生まれてきたのではないのだから』
”ロゼールになる為に生まれてきたのではない”
その言葉に、私の心は驚く程に軽くなった。
何故私は生まれてきたのか。
ジェラルド殿下から黄色のチューリップが贈られてきた時、私はその悲しさ、寂しさに打ちひしがれて、前に進む事から俯いて目を逸らしてしまった。
こうして他の姿(うつわ)を持って生まれてきたのは、ロゼールが叶えられなかった恋を成就させる為ではなかったのか。
女神(アモル)の仕打ちに嘆き、囚われて縛られて、希望を凝り固めてしまったのだ。
その心に、母の言葉は飛び立つための軽やかな羽根を芽吹かせた。
ロゼールと一緒に、私が幸せになる。
私(リアーヌ)が。
まるで未来へと進む為の合言葉だったかのように、身も心も花開くように解き放たれた。
私は、はっきりと覚えている。
死の際にロゼールが何を想ったか。
生涯、シルベストル様だけに女としての思いを向け続けられた自分への誉れ。
時間にすれば僅かながらの逢瀬だったにも関わらず、その思い出だけで一生を幸せにしてくださった奇跡への感謝。
そして、もしまたお会い出来る日が来るのなら、シルベストル様に伝えたいと願った事は一つだけ。
リアーヌとして、そのロゼールからの伝言を、ジェラルド殿下の中にいるシルベストル様にお伝えする機会があるかどうかは分からないけれど、きっといつか、この生に課せられた何かがあるのなら、必然は巡って来る筈だ。
「おや。母上とどんな話をしたのかな? 我が妹は、随分と強くなったようだ」
潜めた声で、麗しく微笑んだ兄に、私は目を瞬いてから告げる。
「そろそろ音楽が終わりますわ」
そう告げると、まるで合図だったかのように演奏家達の奏でる音が止み、幾つかの慣例的な流れの後、陛下が卒業生達への寿ぎを尊く紡いでくださっている。
臣下の礼の形から、陛下に許されて顔を上げれば、視界の端に王太子と、その隣に並ぶジェラルド殿下の姿を見つけた。
そわそわと心が波立のは、私の中のロゼールが、あの方をシルベストル様だと認識しているからであって、決して、私自身の、ジェラルド殿下への恋心ではない。
だって恋をするほどに、私(リアーヌ)は殿下(ジェラルド)の事を知らないのだから。
私はリアーヌ・デュトワ。
確かに、ロゼールとしての記憶はあるけれど、シルベストル様の現身と想いが通わないからといって、どうして不幸だと決められるだろう。
全く違う存在であると信じて未来を見なければ、こうして生まれ変わってきたというのに、本当の意味でリアーヌもロゼールも幸せにはなれない気がする。
ジェラルド殿下も、自身の幸せを自身の手で掴もうとしているのは、そこに達観したからなのかも知れない。
時間が欲しいと言ったのは、一時の感情で全てを決めてはならないという判断で、そして答えとして、あの黄色のチューリップが私の手元に届いたのだ。
「では、踊ろうか」
「はい」
主役である卒業生から始まったお兄様とのダンスは、ロゼールの記憶を受け入れてからというもの、気重だった私にとっては夢のように軽やかで、楽しい時間はあっという間に終わってしまう。
「とても幸せなダンスでしたわ」
息を僅かに弾ませてそう微笑むと、
「それは何より。ではこのまま二曲目も?」
片目を閉じて珍しく軽い調子で笑い返して下さるお兄様に、
「まあ、ふふ」
これまで経験した夜会(ソアレ)では、きっと一番の楽しい思い出となるだろう。
そう気を抜いた瞬間、
「――――――次は私と踊っていただけますか? リアーヌ・デュトワ嬢」
「・・・え?」
想定外だったその申し込みに、貴族女性としてあってはならない呆気に取られた顔を、私は無防備にも突然現れたジェラルド殿下へと晒してしまっていた。
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