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ジェラルド⑯
コルベール国の王都グロワールから、主国カーリアイネンの帝都ジュマラタルタまでの距離は、日の長い夏の季節でも馬車で十八日、騎馬で陽が上っている間を必死で駆け抜けても十日はかかる。
父上の命を受けて王宮から出立したのは秋も半ば。
ジュマラタルタには二十日をかけて到着し、後宮で隠されて育ったという皇女に週に一度の面会《茶会》する以外にも、コルベールの外交の一部を担う事になった僕は結局、三月(みつき)ほどの滞在を余儀なくされた。
そして、
「――――――五カ月近くもの長い間、ご苦労だったな、第二王子よ」
「は。ジェラルド・コルベール、ただいま主国カーリアイネンより帰還いたしました」
居並ぶ臣下達に視線を浴びる位置で膝をつき、帰着の報告の為の礼をとった僕に、
「なかなか元気そうではないか」
玉座から飄々と告げたのはコルベール国王である父上だ。
口が斜めに笑いを含んでいる事は、この際見なかった事にしようと思考から流し捨てる。
「おかげ様で。陛下におかれましてはご機嫌麗しく」
「そうだな。帝国からはお前を褒めちぎる言葉ばかり。それに加えてそなたの婚約も決定した。王として、父として、気分はなかなか上々だ」
国の一大事とも呼べる第二王子《僕》の婚約を何気なく口にされて、ざわりと揺れたのは父上より下座の椅子に座る兄上以外の者達がほとんど。
内々に知らされていたのだろう宰相を含む数人だけは、目線すら動かさず冷静に立っていた。
「で? 日取りはいつと希望する?」
「はい。季節についてはこれから検討する事になりますが、私としてはこの春から一年以内を目途にしたいと」
僕が告げた要望に、兄上の目が僅かに泳いだ。
これはまた、フランシーヌ嬢と共に僕の前に立ちはだかるなと、想像に容易い反応だ。
「ふむ。一年以内・・・」
「王太子である兄上よりも先に、という事になりますが、第二王子である僕は挙式のみで十分だと考えておりますし、過去(これまで)に前例がないわけではありません」
発した言葉の最中から、父上の眉間が僅かに動いたのを見つけた僕は、すぐさま冷水に足るものを告げた。
「もしそれが、兄上――――――曳いては王家の威信に関わるというのであれば、二年後に予定していた私の臣籍降下について陛下のご采配を繰り上げていただければと存じます。その代わり、保留としていた学園の飛び級について正式に受諾し、来月に卒業とさせていただきます」
漸く、父上の表情から得を数えた光が拾えた。
この中で、それに気付けたのは僕と兄上、そして何人かの付き合の長い臣だけだろう。
「つまりは、一年後の公爵としての婚姻を見据えて、直ぐにでも国政に携わるという事か、ジェラルドよ」
「はい。王太子である兄上の補佐を中心に、私に出来る事を精一杯に励み、今後も国に貢献していく所存です」
父上と僕の会話の成り行きを黙して見守っていた忠臣達の間から、感嘆の声がそれぞれに湧き上がった。
おおよそが好意的な反応で、だが、僕の妃の座を娘に狙わせていた者達にとっては落胆を含む思いもあったのだろう。
戸惑いの表情を浮かべるその顔ぶれの中に、リアーヌの父であるデュトワ侯爵の顔があった事は意外だった。
「王族としての義務を公爵という立場で果たし、転封された領地で新たに生活を始めるという事か・・・」
「仰る通りです」
「・・・ふむ」
あと二年、僕が王族である事と、そうでない場合との損得が父上の思考を駆け巡っている。
王族が生活する為の糧は、国民に義務付けられている納税分から毎年見合った金額で上位、つまり国王から順に配分され、もちろんジェラルド・コルベールとしての個人資産も十分にあるけれど、基本的に王族として組まれたその予算は、用途を問わずにしっかりと使い切る必要があった。
その使い方に品位がなければ問題になるが、コルベールでは昔から、王族としての果てしない義務の代償《賃金》だと考えられていて、結婚をすればその予算は当然増える事になる。
となると、僕が学生として義務を半々にしていれば、その伴侶も心穏やかにはいられないかもしれない。
だからこそ、さっさと学園を卒業して臣籍に降下し、公爵位を賜る事で王家に服従するという立場をまず示す。
それによって彼女も、新たな社交の場で健やかな矜持を保つ事が出来る筈だ。
そんな事を考えている内に、現実ではどれくらい時が過ぎたのか。
「――――――わかった」
父上の声が僕の頭上に降り注いだ。
「ジェラルド。そなたの望む通りに図らせよう。――――――宰相」
「御心のままに、我が王《モン・ロワ》」
全てを承知したと両腕を抱えて父上に一礼した宰相に、僕も目礼を返す。
それにまた宰相が一礼を返したところで、今度は兄上が口を開いた。
「ところで、カーリアイネン帝国の皇太子殿下は健やかでいらしたか?」
「ええ。義兄弟になるのだからと、殿下には大変良くしていただきました」
「そうか。恐らく、私と殿下が顔を合わせる機会があるとすれば結婚式の時くらいだろうからな。時間がある時にでも、彼の為人(ひととなり)などを詳しく聞かせてくれ」
「承知しました。兄上」
僕の言葉を最後に、父上が人を払うように腕を横に切った。
それを合図に、守備兵によって重たい扉が時間をかけて開けられれば、外回廊へと繋がっている廊下から春の匂いが混ざる冷やりとした風が入ってくる。
入口に近い臣下から順に、父上に向けて一礼してのち、絨毯の上を滑るようにして静々と退室していくと、それを見送った父上は、玉座から徐に立ち上がった。
「ジェラルド。この度の褒美だ。すべてはお前が望む通りに進めるがいい」
「ありがとうございます」
侍従に導かれて王族専用の扉の向こうへと父上が見えなくなると、兄上が強く息を吐く。
「――――――さて、これからどう動くつもりなんだ? ジェラルド」
久し振りに会う兄上の、王太子という身分を示すその衣装は、乳白色《ブラン・レトゥ》の冬用の生地で、そこに白糸を使って全体的に織り込まれているのは光の加減でしか視る事の出来ない白百合《ル・ブラン》の模様。
それは、コルベール王家の後継にのみ許されている隠れ意匠で、各所に施された金の飾り紐の輝きが、他の季節物とは比べる事も難しい程に王家の威厳を強く表していて、生真面目な兄上の雰囲気には良く似合っている。
シルベストルが王太子だった頃に着ていた衣装とは少し襟元や肩の形が変わっていたが、リアーヌとなったロゼールを見つけてからというもの、懐かしく僕の目に映る一つがこの衣装だった。
「ジェラルド?」
視線の先で手を振られ、我に返る。
「――――――失礼しました。まずは、リアーヌに会ってもらえるよう、侯爵家に使いを出します。全てはそれからです」
「え?」
一段下りて僕の正面に立った兄上の、いつもは優しい顔が眉間を寄せて険しく歪んだ。
「全てはそれから・・・って、まさかお前・・・王家として決定した婚姻の事を黙ったま、」
「兄上」
何かを言いかけた兄上を遮って、僕は目を伏せる。
「最後の手段は選ばない。それほどに、僕はリアーヌを欲しています」
「ジェラルド・・・」
リアーヌは貴族としての心構えを教育された令嬢だから、望まなかった相手でも、実家のデュトワ家の事を言われれば、彼女は作り笑いで頷くと思う。
心を溶かす程に泣きながらでも・・・。
「でもまずは、黄色のチューリップに込めた想いの、誤解を解きたい。そして出来れば」
『私は乞おう。ロゼール・ラフォン嬢。――――――余が、そなたに恋をした事を罪であったと思う時が来るのだとしても、このシルベルトル・コルベールはそれすらも覚悟してそなたに乞いたい。どうか』
”どうか余の側妃として――――――”
あの時、シルベストルの立場としては最大級だった求婚の言葉は、正妃ブランディーヌが放った刺客の乱入により過去に生まれ残る事はなかった。
もし事件さえ起こっていなければ、きっとロゼールは頷いていた筈だ。
「出来れば僕は、王家からの意向に従うのではなく、ロゼールの、――――――リアーヌ自らの意志で、Oui《はい》と答えて欲しい」
拳を握り締めてそう想いを吐露した僕に、兄上が細く長く、肩を落とす。
「・・・そうは言ってもお前、勝算はあるのか?」
「・・・ぅ」
覚悟は決まっていても、痛いものは痛い。
自分の何もかもが及ばないところを問いで突かれて、気まずく目が泳いでしまう。
「おーい、ジェラルド?」
またしても手を振ってきた兄上に、
「どう、でしょうか・・・。何しろこの現世では、再会したあの日以降、会話らしい会話どころか、一対一で相対した事すらありませんから・・・」
思わず身も思考も固めてしまう。
「だよねぇ。そうなると、かなり厳しいかなぁ。確率的に」
「ええ。そうですよね。そう・・・思います」
「・・・それでも、私やフランシーヌに間に入られる事すら、お前には不本意なのだろう?」
呆れ笑いに転じた兄上の顔に、ホッとした僕も釣られて笑ってから頷いた。
「その通りです。兄上」
「うん。わかった。――――――父上も仰っていたしな。全てはお前が思う通りに動くといい。私もフランシーヌも、出来る限り静かに見守る事にするよ」
「ありがとうございます」
「ところでジェラルド」
不意にそう切り替えた兄上が、正面に取っていたお互いの距離を一気に詰めてきた。
「たった五カ月。されど五カ月だな。随分と逞しくなった」
「・・・わかりますか?」
「夜会用の衣装も幾つか新調したと情報は入っていたけれど、ここへ入室する際、扉が開いて、颯爽と歩いてやってくるお前の姿を見た時は、とても驚いたよ」
かつては、随分と見上げていたような気がする兄上の赤茶の眼差しが、さほど上にも遠くない位置で正面に捉えられている。
「僕の心は、国を出立する前にはもちろん決まっていましたが、今の兄上の顔を見て、やはり新たな自信に繋がりました」
「そうか。――――――健闘を祈っているよ、ジェラルド」
「はい」
兄上の言葉に背を押されるようにして、僕は開かれたままだった扉を潜り、希望に満ちた未来を願いながら、回廊へと踏み出した。
――――――
―――――
コルベールに戻ってきた日から今日の卒業式まで、僕がリアーヌに送った手紙は何通になったのだろう。
リアーヌへの接触だけではなく、同時に侯爵家にもリアーヌに取り次いで欲しいと何度も使いを出しているが、デュトワ家筆頭執事はなかなか柔軟さを見せず、温厚で知られている僕の侍従ロイク・アルカンも、「これは殿下への、曳いては王家に対する不敬ではないでしょうか」、そう苦言を呟いてしまう程の頑なさ。
デュトワ侯爵に直接面会を求めても、なかなか時間をとって貰えない。
この調子だと、ご機嫌伺いに日毎贈っていた花も、もしかするとリアーヌの目の端にすら留まっていないかもしれない。
「――――――で、結局は何も出来ないままひと月、今に至るわけか」
王立学園の卒業式、その夜会(ソアレ)の煌びやかさを一段高いところから大広間に見つめながら、隣に立つ兄上の言葉に、僕は小さく息を吐いて応えた。
「ええ。・・・まさか、侯爵家をあげて僕の排除に乗り出すとは、正直考えもしませんでした」
時代が流れ変わっても地位や権力を争う貴族達の欲の本質は変わらず、王家との繋がりについて虎視眈々と狙いをつけているのが有力者の通常だが、どうやら当代のデュトワ侯爵はその既存の枠には入っていなかったらしい。
その利益に易々と釣られてくれる当主であれば、リアーヌについて柔軟に対応してもらえたのではないかと僅かに打算が舌を打ったけれど、裏腹に、そんなデュトワ家に生まれたからこそ、リアーヌは未だ政略的な婚約も強いられずにいるのであり、それが何より僕にとっての幸運だったとも解っている。
「うーん・・・。ジェラルドの思惑も分からないではないけれど、相互作用を期待できるその種の欲は、デュトワ侯には皆無だと思うよ」
リアーヌを差し出してまで、王家と繋がろうとする欲を、デュトワ侯爵は抱えてはいないという事だ。
「彼は適度な実りをどう末永く未来に繋げるか、それが持論の愛妻家で、そしてその妻が育んでくれている家族を何よりも愛している。王家の臣としての思考と、貴族としての伝統的な思考。どちらも仕組みとして理解はしているしその指針に沿った行動、例えば自らの信念に背く事であっても、王家に命じられれば潔く拝する覚悟はあるけれど」
兄上は、言葉を切って僕を見た。
「領民の幸せを考えた時、例えそれが王家からの打診だったとしても、デュトワ侯爵は際どいところまで折れないかも知れないと、確かそう言っていたのを聞いた事があるよ」
それは誰の言葉なのか、
「ともすれば、今回は事がリアーヌ嬢に関する一大事だからね。難易度はかなり高そうだ」
「あの・・・」
苦笑する兄上に明確に尋ねようとして、けれど僕の目は、湧き上がった歓声に再び会場へと戻された。
作られた花道を、それぞれのパートナーと共にゆったりと入場してくる卒業生達。
今年は、飛び級となる僕を含めた総勢五十七名が、シルベストルの後を継いだ二十九代目コルベール国王が創立したこの学園を旅立っていく。
そしてその中に、光を帯びたような見目麗しい長身の男に手を取られ、たっぷりと裾を広げたドレス姿のリアーヌを見つけてしまった。
「リアーヌ・・・」
身に着けているのは、白から蒼穹の色へと胸元まで美しく波打つグラデーションのドレス。
どこかに溶けてしまいそうな程の柔らかい所作と共に、高く結い上げられた位置から腰まで垂れた金髪が煌びやかに、それでいて軽やかに左右に揺れる。
その毛先まで輝く極上の光沢には誰もが息を呑むしかなく、彼女の吐く息すらも、薔薇色に見えてしまいそうな程の優雅さだ。
「あのリシャールの蕩けた顔。ほんと、あまり表には出さないけど、妹大好きなんだよねぇ、彼」
リアーヌの頭上に咲く群青の大花に指で触れたリシャールが何かを囁やけば、頬を染めて下を向く。
兄妹と知らなければ、誰もが羨む相思相愛の二人《ル・クプル》だ。
「・・・」
誰にも気づかれない程に目を伏せた僕に、兄上の小さな笑いが届く。
「気にするな。狭量なのは私も同じだ」
「え?」
思わず見上げた兄上の表情が、見た目だけの笑みに固まっている。
正式に兄上の婚約者として位置付けのないフランシーヌ・バジェス公爵令嬢を、王宮での夜会(ソアレ)等でエスコートするのは彼女の従兄であり、兄上が信頼をおいている近衛騎士のアンリ・バジェス。
「兄上・・・」
初めて、フランシーヌとの事に触れてみたいと、僕がそう思った次の瞬間、
「ここ一月程は、なぜか私もリシャールに避けられていてね」
突然に話題を戻されて、僕は出かかった言葉を呑み込んだ。
「仕事以外の会話はすべて上滑りする内容だけ。もしかしたら、リアーヌ嬢を無理強いする婚姻から守っているだけではなく、怒っているのかもしれないなぁ。デュトワ家は」
「怒っている?」
「そう。――――――ああほら、父上がお話しになるよ」
兄上が人差し指を唇にあてたと同時に、入場の音楽が鳴り止み、場内に数拍だけ静けさが走る。
その時の空白が隅々に行き渡って直ぐ、コルベール国歌の演奏が小さく心地よく始まって、僕と兄上が並んだ場所よりも更にもう一段高い位置から、玉座より立ち上がった父上が威厳のある声で卒業生の今日の旅立ちを寿いだ。
父上の声を左後方に聞きながら、僕は会場内を見渡す素振りで思考を馳せる。
兄上との関係はずっと良好だったリシャール・デュトワが、瑣末な事で王太子側近としての立場を揺るがすような振る舞いを選択するとは思えない。
行動を起こすという事は、その原動力となるものがある筈だ。
・・・僕では、大切な家族《いもうと》を任せるには不足だという事だろうか。
それとも、リアーヌが僕を拒んでいて、――――――兄上の言う通り、デュトワ家でそれを支えようとしているのか・・・。
考えている内に、辺りを割るような拍手が鼓膜に溢れた。
溺れていた思考から意識を現実に戻し、父上が歴史ある豪奢な椅子に腰を戻すのを見て再び会場の人波へと目を戻す。
「音楽を!」
父上の意志を汲み、声高らかにそう言って手を振り上げたのは長年王宮で開催される夜会(ソアレ)を仕切ってきた侍従長。
それを受けて、指揮者が躍るように指をひらめかせ、演奏家達がそれぞれ自由に体を揺すり始める。
リードする男性に合わせて、女性達の色とりどりのドレスが、花開いたり蕾になったりと一気に会場が華やいで、笑い声や楽しそうな会話が観客からも膨らんでくる。
その中で、リアーヌの姿は僕の目を惹き付けて離さない。
「ジェラルド」
兄上が、僕の方を向いた。
きっと、赤茶の眼差しには恋情に情けない顔をする弟(ぼく)が映っているのだろう。
「私はフランシーヌを、――――――愛しく可愛いと思う女性(ひと)を、この先もずっと二番目として扱う事が架せられた男だ」
僕の前では、明確に言葉にしてこなかった兄上の、フランシーヌに対する思いの初めての吐露に、思わずリアーヌから目を離して顔を向ける。
「だからこそ、望みあるお前の恋がどんな形であれ成就する事を祈りたい」
「兄上・・・」
「シルベストル王の時とは何もかもが違う筈だ。お互いに心がありながらもすれ違った二人が、二百年という時を超え、人生を変えても巡り合うなんて、私には愛の女神《アモル》の祝福としか思えない。――――――リアーヌ嬢を今度こそしっかりと、その腕に抱けるといいね。ジェラルド」
「はい」
他の誰にも聞こえない兄上の囁くような声は、とても力強く僕の背中を押してくれた。
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