女性の髪の毛に唇を寄せるのは、"あなたに思いを寄せています"というその表し。
「殿、下…」 戸惑いばかりの呼びかけに、ジェラルド殿下の眼差しが私の金髪の房からゆっくりと上げられた。 視線がぶつかり合い、私はそれだけで膝から崩れ落ちそうになるのに、殿下はそれでは足りないとばかりに距離を詰めてくる。 再び取られた手がじんわりと熱くなった。 シルベストル様と違う指の形なのに、薬指が少し上がって私の人差し指にかかる癖が同じ。 最後に見かけたのは半年前で、あれからずっと沈めてきた思いの種が、この熱で芽吹いてしまいそうになる。 「もう一曲踊りましょう、リアーヌ嬢」 何も望んではいけないと、湧き上がるものを自制しようと思うのに、ジェラルド殿下に見つめられれば否が言えない。 「それともテラスに出て、少しお話する時間を頂けますか?」 これではまるで、ジェラルド殿下が私に懸想をしているかのような見せ方で、案の定、聞き耳を立てていた周りのざわめきが、直ぐ風の音のように束になる。 「まあ、第二王子殿下がデュトワ伯爵家のご令嬢を?」 「でも確か、殿下は帝国の皇女と恋仲になられて陛下もお許しになったのでは?」 「まさか、コルベールの高嶺の花として他国にも名高い彼女を、王家はジェラルド殿下の側妃としてお召しになるというご意向なのか…?」 目を瞑っていた現実が耳に入ってきて、慣れない事に浮かれようとしていた己を我に返って戒める。 忘れてはいけない。 この方は帝国から皇女をお迎えになる御身。 きっとこれはロゼールへの思いやりで、花言葉で伝えるのではなく、きちんと自ら話をしておきたいという事なのだろう。 「――――――御意のままに、殿下」 外に誘い出された事に対して遅れながらも返答すると、ジェラルド殿下は一瞬だけ目を瞬かせ、それから唇の両端を上げた。 「ジェラルド」 「…ジェラルド、様」 「うん」 ジェラルド殿下が満足気に微笑まれると、男性とは思えない可憐さが周囲に撒き散らされ、その煌きを目にした周囲の女性達から感嘆が零れる。 完成間近の青年としての精悍さの中に僅かに残る無邪気さが、存分に人を魅了していた。 そう言えば、今は数も大分落ち着いてきたけれど、兄も、この時期(ねんれい)が一番婚約の打診が多かったと、両親が話していた事を思い出す。 ふと、会場に柔らかな旋律が流れ始め、王太子殿下とフランシーヌ様が広間(ホール)の中央にお出ましになると、高揚感のあるダンス曲へと転調し、それに合わせてお二人が優雅にステップを踏めば、一回りする毎に人々の視線が私達からそちらへと巻き取られていく。 その美しさに目を奪われていると、 「二人には感謝しないと。――――――行きましょう、リアーヌ嬢」 掴まれたままだった手を引かれて、私はジェラルド殿下へと曖昧に微笑んでから、それでも諦めきれずに兄の姿を探してしまう。 「リシャール・デュトワならきっと来ないよ。彼は私――――――というより、シルベストルに忠実な男だからね」 「え?」 シルベストル様に忠実? 「それは――――――」 それはまるで、兄もかつての記憶を持っている存在だと意味するように聞こえて、それを尋ねたいのに、背中に添えられたジェラルド殿下の掌の熱が気になって何も言葉に出来ないまま歩みを進める。 私よりも幾つか年上に見える侍従らしき人が開け放っていた戸窓からテラスへ出れば、春の夜風は、火照った頬を撫でるのに丁度好い爽やかさで、 「リアーヌ」 花油のランプに照らし出されて、ジェラルド殿下の髪がまるで夜に降臨した赤月のように神秘的な光を孕んでいた。 遠くの空に瞬く小さな月が霞んでしまう程に、私の目の前で殿下自身が輝きを放ち、一つ一つの美しい動きから目を離す事が出来ない。 まるで次々と絵画を見せられているように、僅かな仕草も全て私の中に納まっていく。 会わなければ、接点さえなければ、きっと違う世界を見つめられると、そう信じて過ごして来た苦しくも長い時間は、あっという間に塗り替えられた。 こうして見つめていられるのなら、それだけで、私も、そしてロゼールの魂も、十分に幸せだと感じてしまう。 「あの…」 この、ままならない方向へ転がろうとする心の傾きが怖くて、私は息苦しさを乗り越えて声を発したけれど、 「綺麗な色だね」 甘く、慈しむような目線のまま、優しい声音でそんな囁きを紡がれて、私は続きの言葉を失った。 私の左手を掴むのとは別の手の、私の頭に触れるか触れないかの殿下の指先は、きっと飾られた小花を弄んでいるのだろう事が、淑女として警戒を研ぎ澄ませている私の感覚にこそばゆく伝わって来る。 「この 黄色のチューリップ。 二年前に、ジェラルド殿下が贈ってきた花束と、そして、かつてシルベストル様からロゼールに貰った花束が、重さを以て私の胸に沈み込んできた。 そして、その重みごと抉るような言葉が、ジェラルド殿下から発せられる。 「"望みなき恋"」 「どうして…」 私は思わず平静を忘れて疑うように目を瞠った。 例え今の私の何を知らなくても、ジェラルド殿下がシルベストル様なら、私がロゼールから引き継いだ想いがどんなものかは解っている筈。 それなのに、何故この方は、こうして何度も私の胸を突き刺そうとするのだろう。 反射的に浮かんだ涙の中、ジェラルド殿下の表情が歪む。 「すまなかった」 目の前の殿下が、一体何を謝っているのかが分からない。 尋ねる事は不敬だろうかと思いながらも、出来るだけ早くこの状況から解放されたいという願いが湧き出つつあった私は、口にせずにはいられなかった。 「何の、事でしょうか」 「リアーヌ」 眉間を寄せたまま、殿下は真っすぐに私を見た。 「知らなかったんだ。黄色のチューリップに、"望みなき恋"だなんて、そんな悲しい花言葉があるなんて、全く知らなかった」 「…え?」 「僕も、そしてシルベストルも、本当に知らなかったんだよ、ロゼール」 「そんな…」 "知らなかった" 衝撃の言葉に、何を返すべきかの見当もつかない。 何から考えを纏めればいいのか。 その要素すらも見つけられていない今の私が、混乱しているのだと、そう冷静に心中で分析して返せるだけでも私はまだ正常だ。 自賛で正気を量っていると、今度は問いが投げられた。 「リアーヌ、初めて顔を合わせた時の事を覚えている? ――――――シルベストルとの」 「シルベストル様と…?」 初めてシルベストル様と顔を合わせた日…あれは確か、アシル殿下の事をロゼールが慰めた日の事だ。 シルベストル様が、垣根を乗り越えて花広場をご覧になって――――――、 「――――――あ」 あの時、シルベストル様は群生したチューリップに垣根の上から目を奪われていた。 そしてロゼールを見て、とても嬉しそうに笑ったのだ。 畏れ多い程の麗しさに我に返って平伏して、その後で拗ねたような声を発したシルベストル様がどんな顔をしていたのか、見る事は出来なかったけれど、 "余に慰めを、ロゼール" そう言って、生まれて初めての口づけを交わした日でもある…。 「あの…、はい。覚えております」 思い返せば頬が熱くなってしまい、気が付けば空いた手で無意識に唇を隠していた。 「リアーヌ…その顔は駄目」 「え?」 「…くそ、相手が自分でも妬けるとか…」 「あの、殿下?」 「いや、いい、何でもない」 目を泳がせるようにして王子らしからぬ雰囲気で何かを繰り返し呟いていた殿下は、最後に小さく咳払いをしてから、改めて口を開いた。 「黄色のチューリップの花言葉は"光"だと、シルベストルはアシルに教わっていた」 「アシル殿下…」 幼くして亡くなったシルベストル様の最初の王子の事を胸に馳せ、そして、確かに後宮でお育ちになったアシル殿下なら、花言葉を知っていても不思議じゃない、けれど…、 「光…ですか?」 「そう、光」 今も昔も、このコルベ―ルでは聞きなれない花言葉に、疑うわけじゃないけれど、それでも、どう反応すればいいのか戸惑っている私に気づいたのか、ジェラルド殿下が微かに笑いながら説明を足してくれた。 「調べたところによると、どうやらロバトとカーリアイネンではそうらしい。後宮にはシルベストルの治世よりずっと以前から他国の貴族の娘も入っていたし、アシルが習っていたのは、良い意味ばかりを集めて後宮内で独自に纏めた花言葉だったのかなと、そう思う。――――――ああ、そう言えばカーリアイネン帝国ではただの"光"ではなく、"一途な光"なのだと皇女がおっしゃっていた。国を超え、山を越えればその数だけ物事には変化がつくらしい。花言葉もやはりその国独特の文化なのだろうね」 "皇女" 自然に殿下の口から出てきた存在を、私は耳にしなかった事にした。 「…では、シルベストル様からラビヨン様を通して"余の気持ち"だとロゼールに贈られてきたあの花は…」 「"そなたは余の光"だと。失いたくないから、だから、恐れずに私の傍に嫁(き)て欲しい――――――あの時のシルベストルの気持ちを代弁すると、こんな感じかな」 「陛下…」 黒の中に、崇高な青を潜ませた髪色をお持ちの、美しい方。 王としての威風ある所作も、自分の前でだけ無防備に寝顔を晒す可愛さも、キスをする時の恋人としての香りを強くした表情も、一つ一つがロゼールの心を奪っていた。 夢中にさせていた。 容姿や身分の魅力だけでは到達出来なかったシルベストル個人を愛するところまで、ロゼールは幾度かの逢瀬で一気に駆けぬけていたのだ。 けれどロゼールは、数多の妃を召されているシルベストルにとって自分との恋は、そう長くもないものかも知れないと、――――――永遠に特別でいられるなどという過信を持ってはいなかった。 それでも、与えられるのがほんの一時の寵愛だとしても、その訪れを一室で焦がれて待つ生涯を送ってもいいと、彼女は水が流れるような運命に逆らわず、シルベストル様への想いを強く固いものにして、その覚悟で一度は後宮入りを決めたのだ。 あの時、誤解なく結ばれていたのなら、ロゼールにその後の不幸は訪れなかった。 愛のない夫婦の時間に涙しながらも精一杯努力し、育てる事も、会う事すらも許されなかった我が子達を想いながら、かつての恋の僅かな思い出を支えに生きるなどという、そんな暗く悲しい十数年を送る事はなかった。 とても悲しいすれ違いが起こったのだと、そしてその結果にしては、ロゼールの払った犠牲があまりにも大きすぎて、不憫で涙が溢れてくる。 「僕も、だよ? リアーヌ」 「え?」 不意に声をかけられて、無防備に顔を上げた拍子に、大粒の涙が私の頬を流れ落ちた。 一瞬だけ、驚きに開かれたような気がしたジェラルド殿下の唇が、慣れた仕草で私の顎に寄せられる。 「泣かないで」 言いながら離れたジェラルド殿下の唇が濡れているのを見て、涙を食まれたのだと驚いた。 「貴方の涙は、僕には毒だ。――――――胸が、痛い程に苦しくなる」 覗いていた舌先が消えたかと思うと、悲しそうに眉間を狭めた表情から目が逸らせない。 「時間が欲しいと言ったのは、僕が年下だという現実を受け入れる準備が必要なだけだった。再会出来た歓びの反動で、本当に動揺してしまって…」 "二つ、年上なのだな" あの言葉が、私と殿下の始まりにおける、全ての答えだという事なのか。 そして、贈られてきた黄色のチューリップは、"望みなき恋"ではなく、"光"。 ――――――光…。 「リアーヌ。――――――シルベストルにとっても、ロゼールは光で、貴女も、僕にとってずっと求めていた眩しい光だ。貴方がそこにいれば、僕は幸せを見るように目を離せない。近くに来ればこうして手を取りたくなるしそれに、」 言葉を切り、掴んでいた私の指と指の間に、自身の指を折り込んでくる。 「こうしてずっと触れあい、貴女の唇を奪いたいとも願う」 色気に塗れた殿下の流し目はとても十六歳のものとは思えず、これはシルベストル様の杵柄と、ジェラルド殿下の経験に基づく業なのだと結論付けた。 だから、 「リアーヌ。僕は、今度こそこの恋を諦めたくはない」 「ジェラルド様…」 「貴女に乞いたい。リアーヌ・デュトワ。王族に生まれてしまった事はどうにも出来ないけれど、これから先の未来で、私は永久に貴女を大切にすると誓う」 「…」 「どうか、私の――――――」 だからこそ…、 「――――――ジェラルド様」 意を決し、私は不敬を覚悟して、膝を折って頭を垂れた。 まだ殿下に握られたままの左手が、まるで焦がれる物に手を伸ばすように私の視界の端に映っている。 けれど、かつての恋心になぞらえて、その胸に縋るのは簡単な事だろうとは思うけれど――――――今の私がこの方を掴んではいけないと、そう強く思う自分がいる。 「わたくしの答えは、デュトワ家に何かを及ぼすものでしょうか?」 この問いで、私の答えが否であるかも知れないと、殿下も心構えが出来ただろう。 「…リアーヌ、それはない。良くも悪くも、今はただ、私と貴女との二人の話だ。包み隠さずに、今の貴女の心を言葉にして欲しい」 「ありがとうございます。では…」 心と同じく勢いをつけて、私はジェラルド殿下を頭上に仰いだ。 真剣な眼差しの中で、橙の光が揺らめくのは花油の燃す輝きが映るせいなのか。 「――――――わたくしは、殿下のお召を辞退いたしたく存じます」 はっきりと告げた私の声が、夜風に攫われるのはあっという間だった。 |