小説:望みなき恋と光


<目次>

05 リアーヌ

 『私と踊っていただけますか?』

 何度言葉を反芻させても、やはりダンスに誘って下さったらしいジェラルド殿下の赤黒い、宝石のような輝きで包まれた稀有な瞳が、真っすぐに私を見つめてくる。
 手を伸ばせば届く位置に立ったジェラルド殿下は、二年前、薔薇の庭園でお会いした時とは随分と違った印象だった。
 青年らしくなったという見た目の事ももちろんだけど、ロゼールが知るシルベストル様でもなく、私が遠くから見ていたジェラルド殿下とも違う、説明も、理解もしがたい雰囲気を携えてそこにいる。


 ジェラルド殿下を表す赤紫の生地で作られた膝丈の 衣装 チュニック
 両肩に輝く第二王子を示す意匠が彫られた金の肩章と、光沢のある黒の糸で左胸に刺繍されたコルベール王家の紋章、そして耳に飾られた黒曜石の輝き、逃げるように視線を落としても、細かい刺繍の施された黒革のロングブーツと、どこに目線を向けても、眩暈がしそうなほどに煌びやかだ。


 「リアーヌ嬢?」


 差し出された手に諾として手を乗せない私に、殿下が優しい声音で呼びかけてきて、それに釣られるように顔を上げると、僅かに首を傾げるジェラルド殿下の仕草が、以前は可愛らしいと思えたのに、今は、とても、女性を悩ませる程の色気を含んでいる気がしてまた狼狽えてしまった。
 胸の上辺が、ざわざわと波打つ感覚に襲われて身体を震わせる。


 「――――――それとも、貴女の兄上の許可を、先にとった方がいいのでしょうか?」


 そんな殿下の申し出に、私達の周囲から小さなざわめきが生まれていた。


 「あ」


 いけない。
 このまま私が呆けていたら、殿下の立場も兄の立場も困った事になってしまう。


 いいえ、光栄に存じます――――――息を吸い込んで、そう返しかけた時、

 「いいえ」


 応えが紡がれたのは、私の唇からではなく、私の腰に手を添えて立っていた兄からだった。


 「殿下。畏れながら、妹のリアーヌは既に成人している貴族女性です。私の許可がなくとも、殿下の御誘いを自らの意志で受け、もしくは畏れ多いと辞退する権利も有しております」
 「お兄様・・・?」
 「もちろん、そのような不敬をする筈もありませんが」


 それは、私が知っている兄の口調とは随分と違って聞こえて、

 「お前…」


 そして、それを受けたジェラルド殿下も、何かを考えるように眉間に深く皺を刻ませた。


 「――――――リシャール・デュトワ。確か兄上と同じ年だったね」


 潜めるように低くなったその問いに、

 「はい」


 と兄が強く頷き返す。


 「…なるほど。そういう事なのか…」


 近くにいなければ聞こえなかっただろうか細さで溜息を吐き出したジェラルド殿下に対し、兄が手の胸に当てて礼を捧げた。


 「ご慧眼、感服いたします」
 「…分かった。それにしても、したり顔は相変わらずだな」
 「そうですか? 自分では気づきませんでしたが」
 「どの口がそれを言うのかな。とにかく、リアーヌ嬢は借りるよ、リシャール」
 「御意」


 再び、困惑中の私へと目線を戻したジェラルド殿下が、綺麗なお顔立ちを笑みに蕩けさせた。


 「というわけで、この先のすべては貴女に委ねられました、リアーヌ嬢」
 「…え?」


 その表情に魅入ってしまっていた私は、返事も思考も、何もかもが遅れて動揺してしまう。


 「あの」


 恐る恐る兄を見ると、いつもと変わらない笑みで小さく頷いただけで、本当に私の意志に委ねるという事らしい。


 「とは言っても…、断るという選択肢が貴女にあるとは思えませんが」


 視線で促されたのは周囲の様子で、遠巻きではあるけれど、興味津々とこちらを眺め続けている卒業生達、そのパートナー、そして広間の中心を見守るように立っている、ほとんどが貴族かそれに纏わるだろう身分のある父兄達。
 このまま話題を提供し続けるつもりはもちろんなくて、この状況では殿下の言う通り、私には答えが一択しか許されていない。


 「…お誘い、大変嬉しく存じます、殿下」
 「では行きましょう」
 「はい…」


 ジェラルド殿下の、指先まで洗練された美しい右手の所作に誘われて、私はゆっくりと上げた左手を恐る恐るそこに乗せた。
 兄とも、――――――微かに思い出せるシルベストル様とも違う、柔らかな感触を知った途端、まるで包み込むように握られた指を引かれ、ダンスの始まりの位置と殿下が決めたらしい 広間 ホール の中央へと招かれる。


 「漸く、貴女の近くに来る事が出来ました」


 立ち止まり、そう呟いたジェラルド殿下は、指先から私を操って僅かに身体の向きを変えさせ、正面同士に向き合わせる。


 「殿下…」


 姿は違っても、この方はかつてのシルベストル様なのだと、その事実がロゼールの想いを蘇らせてしまうのか、強くなるばかりの胸の高鳴りが、どうか殿下の指先に伝わってしまわないようにと、そして、そう願う度に、そんな自分への恥ずかしさも湧いてくる。
 生まれては爆ぜる複雑な感情の中で必死に呼吸をしていると、掴まれていた左手が不意に開放された。


 「ロゼールといい貴女といい、家族の守りが鉄壁で困ります」
 「え?」


 どういう意味なのだろう。
 言葉の意味と、そして与えられていた温もりを失ってしまった左手の所在のなさに困惑して眉尻を下げた私の腰を、

 「踊ろう」


 そう言ったジェラルド殿下が悪戯っぽい笑みを浮かべながら、力強く引き寄せた。
 同時に、待機していた演奏家達によって高い音から鳥の囀りのように始まったのは、前世で一度だけ、ロゼールがシルベストル様と踊った事のある円舞曲(ヴァルス)。
 しかも、演奏された音ではなく、シルベストル様と二人で旋律を口ずさみながら踊ったという、眩しすぎる思い出の曲だ。


 「――――――まだまだだな」


 踊り出して直ぐ、ジェラルド殿下が溜息に混ぜてそう言った。


 「え?」


 私のダンスに問題があるのかと、驚いた弾みでステップを崩しかけると、

 「ああ、ごめん。君じゃなくて、僕の事だ」


 体を支えてくれた殿下の眼差しが、正面より少し上の位置で微かに光る。


 「こうして並ぶと、まだ身長にそう差が無いなぁって」


 身長…?

 「でも、僕はまだ成長期だしね。うん、まあ、それももう、どうでもいいかな。今の僕なら、大した問題じゃないってちゃんと解っているしね」


 楽しそうに笑うジェラルド殿下の、その顔はどんなご令嬢に囲まれていた時も見せた事のない表情で、

 「あの…、殿下…?」
 「ジェラルド」
 「え?」
 「君には、名前を呼んで欲しい」


 ステップを乱す事もなく、

 「ジェラルド、そう呼んで、リアーヌ」


 保っていたお互いの距離を縮めてそう囁いたジェラルド殿下の息が、私の首筋に熱く触れる。
 瞬間、体の温度が一気に上がったような気がした。
 跳ね上がった心音は、もしかしたら一瞬、動作を忘れて止まったかも知れない。


 「ふふ、顔が真っ赤だ、リアーヌ。――――――でも、失敗したかな。誰もが知るリアーヌ・デュトワという完璧な淑女の仮面を外すのは、僕の前だけにしたかった」


 回転する度に流れて入れ替わる周囲へと目を向けながら呟いた殿下を前に、恥ずかしさなのか、それとも別の何かなのか。
 言葉に出来ない感情が、私の中のどこかから、止め処なく溢れてくるのが分かる。


 一体、どうしたというのだろう。
 ジェラルド殿下も、そして私も――――――。


 「ねぇ、リアーヌ」


 名前を呼ばれたけれど、不敬だとは思いながら、敢えて目を逸らしたまま「はい」
とだけ答える。


 「…ダンスが終わったら頬にキスしてもいい?」
 「えッ?」


 驚いて、避けていた視線を合わせると、それを出迎えてくれたジェラルド殿下が妖艶さを含む笑みを浮かべていて、私は唐突に、これが言葉遊びではないのだと察した。


 自惚れじゃない。
 勘違いじゃない。


 殿下は、間違いなく私を口説いている。


 でも何故――――――?

 「あの、殿、」
 「ジェラルド」


 "望みなき恋"

 黄色のチューリップの花束が贈られてきたのは二年前。
 もしかしたら、生まれながらに抱えていたロゼールの記憶を共有できるかもと、シルベストル様の記憶を持つジェラルド殿下との出会いに僅かに希望を持ってしまった私を、話し合う機会もなく打ちのめした、あの寂しすぎる衝撃。
 私の中のロゼールが泣いていた。
 結ばれないのなら、なぜリアーヌの中に生きているのか。
 なぜ、再びシルベストル様と出会う必要があったのか。


 "望みなき恋"

 黄色のチューリップの花びらが一枚一枚、水分を失くして落ちる度に、一つずつ、少しずつ、ロゼールの記憶を整理して、シルベストルを過去に持つジェラルド殿下への複雑な想いも整理して、そして昨夜、母に全てを打ち明けてから ようや く、リアーヌ・デュトワとしてしっかりと前を向いて生きて行こうと、そう決めたばかりのこの夜に、

 「ジェラルドだよ、リアーヌ」
 「…どうして、なのですか?」
 「貴女には、名前で呼んで欲しいから」


 欲しい答えは、それじゃない。


 「ジェラルド、そう呼ばないのなら、僕を悲しませる代償として、――――――そうだ、頬じゃなくて貴女のショコラにキスをする事にしようかな」
 「ショコラ…?」


 突然の、まるで嵐のような意味不明さで吹きすさぶジェラルド殿下の所業に、私は上辺だけでもと薄氷のような冷静さを保っているだけで精一杯で、

 「黄水晶も美しかったけれど、その深い色合いも神秘的で綺麗だね、リアーヌ」


 その言葉により、殿下の うショコラが、私の瞳の事だと漸く気づいた。


 「で…」
 「ジェラルド」
 「でん、」
 「ジェラルド。――――――ほら、曲が終わるよ。それとも」


 "そんなに僕のキスが欲しいの?"

 耳の側で囁かれて、また顔に熱が灯る。


 目の前にいるのは、十六歳のジェラルド殿下で、  けれど中身の一部は、多くの美姫を侍らせてきたシルベストル陛下。


 呼ばなければ、本当に瞼にキスをされてしまう。


 「ああ、曲が終わ――――――」
 「ジェ、ジェラルド、殿下」
 「ジェラルド」
 「…ジェラルド、様」
 「ジェラルド」


 何度も耳元で繰り返されれば、もう何が正しいのか判らなくなってしまった。


 「…ジェラルド、どうかもう、わたくしをお許ください…」


 息が途絶えてしまいそうな程の苦しさの中、どうにかそこまで絞り出すと、

 「リアーヌ嬢、貴女は、私の息を止めるつもりですか?」


 ――――――え?

 いつの間にか、音楽が止まり、ジェラルド殿下の声だけが、 広間 ホール に涼やかに響き渡った。
 場内の視線が、波のように次々と私達に集まってくるのが肌で感じられる。


 そんな中で、

 「…どうして…?」


 もう、何も考えられなかった。


 私の背中から、ジェラルド殿下の指が垂らしていた金色の髪を一房すくいとり、そして、手に持ったその髪の束に、少し上身を屈めて押し付けるように唇を寄せるのを、私は茫然と、ただ見つめている事しか出来なかった。









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