小説:望みなき恋と光


<目次>

03 ロゼール

 ――――――
 ――――

 「ロゼール・ラフォン!」
 「は、はい!」


 食堂の入口で、誰のものかと確認しなくても分かる声で大きく名を呼ばれ、私は手に持っていたフォークを思わずお皿に落としてしまっていた。


 「直ぐに私の部屋まで来なさい」


 振り返る間も無い勢いでそう告げられて、

 「はい!」


 椅子を退けて立ち上がると、

 「ロゼール、何をしちゃったの?」
 「管理官、凄い顔だったわよ」


 私の周りに座っていた仲間達からそんな声がかかる。
 ここは王宮に勤める子女専用の食堂で、今は夕食の時間だった。
 入口に背中を向けていた私は刺し込むように聞こえてきた管理官クレマンス・ルノダ様の声に固まってしまい、振り返る事すら出来なかったから…それはそれで良かったのかも知れない。
 もし、みんなが驚く程のその"凄い顔"を見ていたら、腰が抜けて立ち上がる事すら出来なかったかも。


 「わ…わからないわ」
 「ロゼールの担当は 薔薇の間 ロゼ 白百合の間 ル・ブラン だった? でも、ここ暫くは貴賓の使用は無かったわよね」
 「あら、何で怒られるかなんて分からないわよ」
 「そうそう。私なんて、この前は担当部屋の花の一本が萎れかけていたって、小一時間も説教されたんだから。王宮の女中たるもの云々で」
 「お花…」


 今日見た時、壷に挿されていた花は何だったかと、記憶の彼方まで巡らせてみるけれど焦る思考では思い出せない。


 「…行ってくるわ」


 覚悟半分、諦め半分で立ち上がった私に、

 「そうね。早い方がいいわ。遅いってお叱りが追加されるかも」
 「とにかく泣きそうな顔で俯いて、言い訳したりしちゃダメよ?」
 「それ大事。謙虚な姿勢が一番好ましいわ」
 「そうそう」


 周囲から次々とそんな言葉がかけられる。


 「――――――ロゼ、ここは片付けておくから、早く行きなさい」
 「あ、ありがとうございます…」


 隣に座っていた同郷の先輩でもあるヴェロニクさんに好意に背を押されて、私はとにかく急ぎ足で食堂を出た。
 基本的に、担当の業務が終われば私服で問題ないから、今の私の恰好は踝まで丈のある薄青のサラリとした ローブ ワンピース
 紺色の 制服 ローブ とあまり変わり映えはしないから、みんなにはよく"お洒落をしなさい"と 揶揄 からか われるけれど、十六歳で成人したと同時に勉強という名目で両親に送り出された王宮での従事生活に慣れる事で必死だった二年間は、そんな余裕は全然なかった。


 私が持つ子爵令嬢という立場は、下働きの枠まで身元がしっかりと保証されている人間しか雇わないこの王宮では、そう特別な身分ではない。
 貴族達からは、王家への忠誠もさることながら、家を継ぐ事のない令嬢令息達の生きる場所、もしくは良縁を見つける場所として捉えられている傾向もあり、また、王家側には新たな忠誠者、能力の発掘、更には、各領主への新たな手綱を増やすという意向もある。
 そんな中で、とにかく頑張れるだけ頑張ろうと、洗い場の小間使いから始まり、季節が変わる毎に汚れ仕事は減って来て、自分が出来る事を精一杯頑張って続けたその結果、春から 女中 メイド として担当になった貴賓室二部屋の清掃や各手配の要領も掴めてきたこの頃。
 漸く休暇を使って城下におりて、初めて自分の給金で買った綺麗なオレンジの リュボン リボン が今の私の一番の宝物という、至って平凡な女の子…もう十八になるから、淑女、と私くらいは言ってあげよう。


 そう。
 どこにでもいる平凡な淑女が、私、ロゼール・ラフォンだったのに…、



 「――――――ロゼール・ラフォン。中央より、あなたに打診がありました」




 「…え?」


 事態の予測すら出来ずにいた私に対して、ルノダ様が鋭い目つきのまま告げたのは、

 「陛下のお傍に上がる気はあるかと」
 「…え?」
 「畏れ多くも、国王陛下、ご内室への打診です」


 ごない、しつ…。


 「ご内室………………ぅえええええぇッ!?」


 淑女らしさが欠片も無かった私の叫び声を、

 「ロゼエェェェル・ラフォン!」


 これまでで一番のルノダ様の雷が、重なってかき消した。


 「はいいぃいぃ、ももも申し訳ありません!」


 ひっくり返る程に声を裏返らせながらそう言って、私は深く深く頭を下げて、ルノダ様の小言を待つ。
 けれど、一向にそれが始まる気配はなくて、

 「…」


 思わず、上目でルノダ様の姿を探していた。


 「…ロゼール・ラフォン。顔を上げなさい」
 「…はい」


 低く、そしてゆったりとした口調に釣られて、私もまた、静々と上身を伸ばして立った。
 視線は、ルノダ様の組まれた手に向けるようにして、聞く姿勢を暗に伝える

 「――――――このお話は、どうやら陛下の側近でいらっしゃるオーブリー・ラビヨン様が進められている話との事。当の陛下はまだご存じではないそうです。その事について、あなたにはしっかりと言い含めるように指示を受けております」


 言われて、私は疑問が腑に落ちた。
 陛下とは昨日も言葉を交わしていたけれど、こんな話が持ち出されるような雰囲気は一切なく、それより何よりあの方は私を、まるで懐いた近所の子供のように扱っている節がある。
 きっとそのラビヨン様は、お出かけになる陛下の行く先に私がいるから、それで何かを誤解なさったのだろうと結論付けた。
 私の、自身で否定できない淡い気持ちはともかく、あの時間は陛下にとってそんな色めいた意味はなく、ただ身分で隔たらない 女中 メイド との他愛ない会話を楽しんでいるだけだ。


 「あの」


 どこまで、陛下との事をお話していいものか迷ったけれど、これはルノダ様からきちんとラビヨン様に伝えて貰った方がいいような気がする。


 「ルノダ様。私、陛下とは」


 意を決して、口を開きかけた時だった。


 「管理官!」


 合図も無しに部屋の扉が開かれて、私も顔を知っている汗だくの給仕長が駆け込んできた。
 確か六十も過ぎている筈なのに、こんなに息を切らせる程走っては、突然泡を吹いて倒れてしまうのではないかと、給仕長の呼吸に思わず耳を澄ませてしまう。


 「給仕長。何ですか、騒々しい」


 ルノダ様は、険しい顔つきで眉間に皺を寄せたけれど、何か事の重大さを予感しているような身の構えだという事は、付き合いの深くない私でも悟ってしまう。
 それくらい、場の空気が一瞬で張り詰めてしまった。


 「一大事です」
 「一大事?」
 「また後宮内が荒れ狂いますぞ!」
 「給仕長。要点を述べなさい」


 きっと給仕長にとって、この間は必要だったのだと思う。


 「――――――アシル王太子殿下が、お亡くなりになられました」


 (え…?)

 「なんですって!?」


 まるで、目玉が零れ落ちそうな程に目を見開いたルノダ様の傍で、

 (陛下…)

 息を止め、突然に御子を亡くされた陛下の御心を、私はいかばかりかと量っていた。






 私は、遠目からもお見かけした事はないけれど、シルベストル陛下とご正妃ブランディーヌ様の間に生まれたアシル殿下は、陛下に似た青みがかった黒髪の、後宮内に咲き乱れる花々に声をかけながら愛でる事を日課とする、とても健やかな王子だったらしい。


 ――――――陛下…。


 陛下がブランディーヌ様と成婚なさるまで、その正妃の座を争っての側妃様方同士の水面下での毒投げ合戦は壮絶だった事は貴族なら誰も知っている。
 それ以前に、先代の王、シルベストル陛下の父君の御世でも、後宮のお妃様方の権力争いは戦場を現す絵画のように恐ろしかったとは一般の民衆の間でも語られる話だ。
 陛下の産みのお母様でいらっしゃる前王妃様も、最後は毒に倒れたのだと教えてくださったのは、王宮に出仕する私を心配してこの王都まで送ってくださったお兄様だった。


 "ロゼールは人が好いから、王家のそういった黒い部分にお前が巻き込まれてしまわないか心配だ"

 黒い部分。


 薔薇の垣根の向こうから聞こえてくる陛下のそのお声やお言葉の様子からは、そういった暗さは感じられない。
 穏やかに、とても真っ直ぐに、優しく私と対話をしてくださる。


 王だからといって、心が無いわけじゃない。


 不敬でも、私達と同じ人ではあるという事は私の中に根本にある。
 たったお一人の御子であるアシル殿下を亡くされて、陛下はどれほどにお嘆きかしら…。


 「あーあ。暫く落ち着いていたのに、また地獄の後宮怪談が始まるのね」
 「ほんと。ブランディーヌ様がご正妃となられて随分と後宮も落ち着いていたのに」


 陛下を思ってなかなか食事が進まない私を他所に、長く王宮で働いている同僚達は、入れ代わり立ち代わり、いつもより声を潜めながらも一番の関心事を話している。


 「給仕長はたった二日で相当にやつれたらしいわよ」
 「そりゃそうよ。真っ先に正妃争いの苦行に晒されるのは、食べ物を世話する給仕係だもの」
 「これから毒見で一体何人が天に旅立つのやら」


 食べ物に毒が入っている話なのに、支給が限られた食事だからか、それとも私が知らないだけで、この食堂のものは大丈夫だという根拠があるのか、食べる行為そのものを厭う様子は全く見えない。
 まして、王太子殿下が亡くなったというのに、涙を浮かべ、哀悼を捧げ、静かに祈ったのは少しの間だけで、一夜明けた今朝からは、もう誰もがいつもと変わらない様子で働き出していた。


 喪に服す志はある。
 敬意もある。


 でも、 殿下の死 それ だけに心を寄せてはいられない。
 私達が働かなければ王宮の何もかもが動かなくなってしまうから。
 それぞれに役割があり、それを全うしなければ、殿下を天にお送りする事も出来ない。


 そうやって一生懸命身体を動かしている内に、身近ではない人の死は、王宮に勤める者達の現実からは、随分と遠くにいってしまった。


 「私達 女中 メイド にはあまり直接関係はないけど、胃が痛い話よね。――――――あら、ロゼール。もういいの?」


 ほんの少ししか量を減らせなかったトレイを持って立ち上がった私に、その声を切っ掛けにして親しい視線が幾つか向けられてくる。


 「なんだか、昨日から王宮の雰囲気に慣れなくて…」


 話の流れついでに胃の辺りに手を当てて見せると、みんなは苦笑で応えてくれた。


 「ロゼールはこういうの初めてだもんね」
 「確かに、王宮内が久々に変な緊迫感出してる気がするわ」
 「少し眠ったらどう? もう夕方までする事はないんでしょう?」


 それに小さく頷いて、私はトレイを片付けてから屋外へと身を進める。


 私もきっと、陛下とお話をするという個人的な接点がなければ、同じように仕事に没頭出来たかもしれない。
 幼い王太子殿下の早すぎる死は悲しいけれど、今私が抱いているこの胸の痛みは、恐れ多くも陛下とお話をさせていただいているからだ。
 あの方のお人柄に触れている私は、子を亡くした時の胸が潰される思いを、想定し得るから…。


 本来なら、許されない思考だと思う。
 たかが子爵令嬢が、陛下の御心を量るなんて、そんだ大それた事を、思いにしてしまうなんて――――――。


 「でも…」


 人の目を気にしながら、小走りで向かう先は自室ではなくて、陛下との時間を何度か紡いできたあの垣根。


 私などが、あの方のお役に立てる筈もないし、殿下の禊の最中でもある今は、決して陛下が訪れる事はないと解っていても、何かに押されるように足が進んでいた。


 『私は、ロゼールと過ごす時間が好きだ。妹があれば、きっとこのように安らぎを得られるものだったのかと思うと、なお愛しい』

 「陛下…」


 いつもより遠く感じながらも、漸く辿り着いた広場の端。
 私と陛下とを隔てる薔薇の垣根にそっと指先を添えて、少しでも早く、あの方が心を安らかになる事が叶いますようにと祈りを込める。


 見えないこの向こうの、一体どの辺に陛下がいらっしゃる宮殿があるのか、私は正殿の奥には入った事もないし、見た事すらもないから想像一つ出来ない。


 でも――――――。


 空を見上げれば、陛下の御髪と同じ色の青が広がっている。
 それはきっと、あの方の悲しみの色と言えるのではないかと、その青の深さが目に染みてまた泣きそうになった。


 陛下…、  陛下…、

 シルベストル様…――――――

 胸の中で、何度その名を呼んだ時か。


 垣根の向こうで、草を踏みしめる音がした。


 まさか…、

 「…シルベストル様…」


 呼びかけに、気配が動きを止める。


 「シルベストル様…? そこにおいでなのですか?」
 「ロゼール…?」


 返ってきたその声に、私の想いが堰を切ったように溢れだした。


 「シル、ベストル…様…この度の、殿下の事…誠に…」


 ああ、もっと、もっと陛下をお慰めしたいのに、何も言葉が出てこない。


 「――――――ロゼール…」
 「はい」
 「ロゼール!」
 「はい!」


 私が心中で呼んだ以上の強さで、陛下が私の名を呼んでくれたことに動揺した。
 昨日まで、ここで語らっていた陛下も、想像もした事の無かった陛下だったけれど、今日はそれとも違う。


 「誰も、余に問うてはくれぬ」


 …え?

 「誰も、余に答えてはくれぬ」
 「……陛、下…」
 「余に似たあの可愛い子が、一体どこに行ってしまったのか、誰も、気にしてはくれぬ…」
 「ッ、陛下…」


 ああ、この方は、ただ我が子を慈しむ、一人の父親として嘆いている。


 「もうどこにもいないというのに、誰も、その事について問うてはくれぬ。誰も…あの子を…誰も…」


 私は、懸命に言葉を探し出した。


 「陛下が…」


 ああでも、

 「陛下がいらっしゃるではありませんか!」


 言ってしまった。
 口にしてしまった。


 もしかしたら、女中風情が国王に何を諭すのかと、不敬罪に問われてしまうかも知れない。
 でも、

 「そのように嘆かれる陛下がいれば、それで十分だと殿下はきっとお思いでしょう」
 「…ロゼール」
 「そのように悲しまれる陛下がいるから、十分に幸せだったと、殿下はきっとお思いの筈です!」
 「…だが、余は、アシルに何も伝える事は出来なかった…。何も、言ってやる事すら出来なかった…」


 この方は、

 「アシルにとっては、私も、私をそう扱ってきた者達と、何も変わらぬ」


 このシルベストル・コルベールという方は…。


 「いいえ――――――いいえ、陛下」



 隠してきた慈悲が、きっと誰よりも深い方――――――。


 「愛は感じるものであると、私は母に教わりました。きっと、アシル殿下にも伝わっていたと思います」


 そして誰よりも、

 「殿下は禊においででしょう? まだ神の御許ではありません。殿下は、まだこの世にいらっしゃる。この世界で、陛下を見ていらっしゃるのです」


 その慈悲と、許しを、陛下自身が求めていらっしゃる。


 「誇れる父君としてしっかりなさいませ! ぁ、痛ッ」


 興奮しすぎて、すっかり我を忘れてしまっていた。
 ぎっしりと密集して巻かれた薔薇の逞しい棘を、思わず握りしめていた自分がいた。


 「…ロゼール? どうした? ロゼール!?」
 「あ…いえ、何でもありません。ちょっと、興奮して、薔薇の棘を握ってしまって」
 「何?」
 「本当に、大丈夫ですから」


 皮膚の上に溜まる血の赤を見つめながら、私は泣きそうになる。
 お慰めしたかったのに、逆に心配をかけてしまうなんて、なんて役立たず…。


 「怪我をしたのか?」
 「大した事はありません」
 「そこで待て」


 一瞬、言葉が分からなくなったのかと呆けてしまった。


 「…え?」


 垣根が、視界で波打つように揺れている。


 「へ…陛下? 何をなさっているのですか?」


 まさか、

 「そこで、余を待て」


 気配が、確実に垣根を上って来ていた。
 首が痛くなる程に見上げる事になるあのてっぺんから、まさか――――――?

 「へい…か…」


 まるで、空に溶けそうな程に青い光沢を持った髪が、光の中に煌いた。
 いつか、バルコニーにお出ましになった凛々しいお姿を拝した事があったけれど、まるで、至上の美が舞い降りる、翼がある神の御使いのような目映さ。


 陛下は、遠くに咲き乱れるチューリップの群生に奪われて声も出さず、そして改めて、私の方へとその美しい眼差しを落とした。


 「ロゼール…か?」


 ずっと、垣根の向こうからしか聞けなかったそのお声が、刻まれる様子がはっきりと見える。
 私の名を紡いでいる事すら幻覚のように、陛下の唇はただただ涼やかな印象で、

 「ロゼールだな?」
 「は…はい!」


 強く確認され、自分が礼儀なく突っ立ったままである事に気が付いた。
 慌てて膝をつこうとすると、

 「よせ、ロゼール」


 陛下の声が、また一段と近くになる。


 「私はそなたにひれ伏して欲しくてここに来たのではない」
 「陛下…」


 その意図が計りかねて恐る恐る顔を上げると、

 「なぜ、名を呼ばぬ」


 美しいお顔を不機嫌そうに歪めた陛下が、ジッと私を見降ろしていた。


 「その…気づいていない振りは、もう出来ないかと思ったので…」
 「…知っていたのだな?」


 その問いには、罪を認めて俯くしかない。
 陛下と知っていながら、私はそれを知らない振りで謀ったのだ。


 「…ロゼール」


 名を呼ばれ、ドキリと胸が鳴いた。
 何を沙汰されるのか。


 心音が一つになりそうな程に早く打たれている。


 「そなたには名を呼んで欲しい」


 ――――――え?

 「陛下…」


 予想外過ぎて、ポツリと返していた。


 「前にも言った。これは、余の望みである」
 「あ…」


 "これからも私の事は名前で呼ぶように"

 陛下の――――――シルベストル様の眼差しが、真っすぐに私を見つめていた。


 「…はい、シルベストル様…」


 頷くと、満足気に微笑んだシルベストル様は、私の手を取って開かせた。


 「傷を見せよ」


 そして、私の掌についた傷口に、それはもう、私から見れば接吻と同じで、

 「シルベストル様!?」
 「…そなたの傷は、何故か余をも痛めつける」


 …この傷が…?

 混乱している頭では、何を考えても答えは浮かぶ筈が無かった。


 「花の黄色を映して、そなたの瞳こそがまるでチューリップのようだな」
 「…あの…」
 「そなた、恋をした事は?」


 恋…?

 何を尋ねられているのか、この時はまだ不明瞭で、

 「キスを、した事は?」


 キス?

 私は即座に首を振った。
 恋をした事も無いとお答えしたのに、なぜその質問が続くのか、わけがわからない。
 泣きそうになってしまう。


 「悲しみの縁に咲いたこの小さな喜びを、そなたと分かち合いたい」


 掠れたような小さな声でそう囁いたシルベストル様の指が、私の唇を何度となく撫でては過ぎる。


 「余に、慰めを、ロゼール」
 「シルベ…」


 初めてのキスは、まるで風が触れるような優しさで、

 「…」


 次に重なった時は、シルベストル様の香りすらも食べてしまったような気にさせられる口づけだった。










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