私が憩いの場として良く訪れている花広場は、王家の森に続いているという事もあって虫が出やすく、女子にはあまり人気がない。
それよりも、給水所がある反対側の広場なら、騎士様方が多くお通りになって目の保養ができるし、もしかしたら良いご縁にも巡り合えるかもしれないと、みんなそちらに足を運んでいってしまう。 だから、本を読んだり散歩をしたりして、贅沢な時間をのんびり楽しめているのだけれど…。 「どうしてばれちゃったのかしら」 その憩いの場で、王宮の森から出てきた人懐こい真っ白な猫に 生き物に餌を与えてはいけないと、そんな規則は寝耳に水で、それよりも、あの時は人の気配なんか気づかなかったのに、一体誰に何処から見られていたのだろうと不思議だった。 しかも、おやつ抜きの罰則を受けている時に限って、糖蜜をたっぷり含んだフィナンシェが出たり、ロバト国から あの二週間は、周囲に座る同僚のお皿を見るのがとてもとても辛かった。 そして今日。 いつものように休憩時間を利用して、季節ごとのお花が咲き乱れるのが遠目に美しいお気に入りの場所に来た私を、苦行の要因となった猫ちゃんが昆虫を銜えながら出迎えてくれた。 長く見かけなかったけれど、毛並みの色艶も問題なさそうで、ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。 その猫の、大きな水色のまん丸の目が、私にこの前の鶏肉をくれと訴えているような気がして、どうしても平常心を保てずに右往左往してしまう。 「な・・・何も持ってないわよ? ほんとよ?」 スカートをひらひらと振って、両手もしっかり、表と裏まで見せながら訴える。 「ほら、ね?」 けれど白猫は、私を見たまま、ジッと動かない。 「…駄目よ。お願い。そんな目で見ないで。そんな目で見られても、無理なものは無理なの。――――――だって、禁止だなんて知らなかったんだもの」 ほんの気紛れで食べ物を与えた事でどんな影響があるか。 直接の上司である侍女長の上の更にその上、管理官の一人であるクレマンス・ルノダ様にこれでもかと説教された時間の長さを思い出して項垂れた。 確か60歳に近い彼女は、現在唯一の女性管理官であり、その威厳たるや、もう思い出しただけで背筋が震える。 「ほんとにごめんね。禁止じゃなかったら、ほんとは直ぐにでもお肉をあげたいくらいなの。ほんとよ?」 規律に厳しいのは当然で、規則を知ったからには私ももう食べ物を与える気はないけれど、それ以前に、もう絶対にルノダ様にお叱りを受けたくないと固く心に誓っていた。 「でもごめんね、本当に無理…」 殆ど泣き言に近い言葉を猫に向かって紡いでいると、 「ぷ」 …え? 「ははは、…くく」 今の季節は黄色へと色と変えた薔薇の垣根の向こうから、突然男の人の笑い声が聞こえてきた。 「誰!?」 反射的に叫んでしまっていた私に、 「――――――いや、驚かせたならすまなかった、 耳に優しいその声音。 笑い声の爽やかさとは違う、威厳の窺える言葉遣い。 明らかに高位貴族と想定出来る風格が、見てもいないのに感じ取れた。 「あ、あの、私、規則は破っていません! 本当です」 視界の端に真っ白な猫の尻尾を見て、誤解をされたのではと慌てて紡ぐと、 「ああ、解っている。ちゃんと聞いていた。そなた、名は?」 「え?」 「何も罰を与えようというのではない。ただ問うてみたいが、答えをくれるか?」 言えと命じれば拒むことなど出来ないのに、まるで誑かすように優しくそう言われると、思わずひと時迷ってしまった。 この垣根の向こうには、陛下の執務室もある王宮の中枢。 そこの庭園をこんな風に自由な雰囲気で歩き回れるのだから、間違いなく要職のお立場にある人だとは思うけれど…、 「余程怖がらせたようだ。私はこの場を離れるから、とくとその子と話をするが良い」 その言い様が、とても寂しそうに聞こえて、 「ぁ…あの!」 私は思わず呼び止めてしまっていた。 「…あの、私はロゼールと申します」 「ロゼール?」 「はい。ロゼール・ラフォン…です」 ラフォン家は、この国の北を守る貴族の一つで、領土は国境の端。 つまり、対バルネヴェルト国の防壁も兼ねている。 「そうか」 どこのラフォンか聞かれなかったという事は、私の身分を承知したという事だろう。 なら、次はきっと名乗ってくれるだろうと待ち構えていたけれど、暫く待っても言葉がない。 身分が判らない以上、尋ねてもいいかどうかの判断は出来ないと考えたのに、 「あの…あなた様のお名前は――――――」 私の口からは、ついそんな質問が出てしまっていて、 「あ」 これは失礼だったかも知れないと、思わず両手で唇を押さえこんだ時だった。 「ああ! 私はシルベストルだ。ぁ」 ――――――え? 弾んだ声で紡がれたその名前に、思わず目を瞬いてしまう。 「…シルベストル様…ですか?」 「あ、…ああ」 同じ「ああ」なのに、先ほど名乗った際の「ああ!」とは随分と雰囲気が変わってしまった。 「シルベストル…」 シルベストル…。 シルベストル……。 王宮にいて、その名を正々堂々と名乗れる存在が、二人もいる筈はない。 ――――――陛下だ。 認識した途端に、緊張で体が強張ってしまった。 ど…どうしよう? 周囲を見回しても、誰がいるわけでもなく、つまり、判断は全て私でしなければならない。 目上の方にお会いするのだって少ないのに、何も最上の目上の方に遭遇しなくても…。 自分の運の良さなのか悪さなのか、今の状況にどうにか頭を回転させる。 広場に向けて王宮のバルコニーに立つ我がコルベール国の若き王、シルベストル・コルベール陛下。 青みがかった黒髪に、遠目から見ても憧憬を思わせる長身と、目映い王冠にも負けない美しいお顔をされている。 お出ましになる陛下の隣にはいつも楚々とした美しいご正妃様のお姿があり、後宮から出られないご側室様は、星の数ほどいる事も知っていた。 「あの…、本当に私、この子にお肉は与えていませんから。ちゃんと私、我慢していますから」 絞り出した結果、お門違いにしか聞こえない私の言葉に、陛下はまた大きな声で笑い出した。 ―――――― ――――― 「今日は食堂でフィナンシェが出たんです。とても嬉しくて」 「ロゼールは甘い物が好きなのか?」 「女の子は、大抵は甘い物が大好きだと思います。ショコラが出た日は、あちこちで悲鳴が上がりますから」 「そうか」 「幼い頃、初めてショコラを食べた時、とても嬉しかったけど、同時に寂しくなったのを覚えています」 「何故だ?」 「それまで一番大好きだった糖蜜の飴が、随分と遠くになったような気がしたのです。知らなければ、ずっと糖蜜がかかったパンケーキが一番だったのに、知らなくてもいいものを知ってしまったような、そんな気持ちになってしまって…」 「ロゼールは不思議な考え方をする」 「そうですか?」 「前に、猫にも話していただろう? 鶏肉を知らなければ、その虫をもっと幸せに食べられただろうにと」 「…はい」 「だが、その鶏肉を食べた時の幸せも、あの猫にとっては紛い物ではない」 「…ですが、きっともう二度と、口にする事の出来ない幸せです。知らなければ、――――――焦がれずに、もっと幸せだったのかも知れません」 「ロゼールはそう考えるのか…」 不思議そうに呟かれる陛下は、きっと得られない等という事は少なくて、私の考えを心底から理解する事はないだろうと悟らせてきた。 「ロゼール。こうしてそなたと話す時間は何にも換え難い。いつ制されるかも知れん遊戯ではあるが、私は出来る限り望みたいと思う」 こうして、国王陛下が耳を傾けて下さるだけでも大変な名誉だと、私は所望されるまま時間を割く。 何度か垣根越しに会話を交わす内、話の流れでお聞かせする事になってしまった私の故郷に伝わる子守歌を、陛下は特にお気に入りのご様子だ。 望まれて口ずさみ、歌い終える頃には微かな寝息が、ぎっしりと柵に絡まった薔薇の隙間から聞こえてくると、その途端に、我に返った私はどうしようもなく恥ずかしくなり、熱くなった頬を手で扇ぎながら冷ましていると、歌が止んだ事で陛下は敏くお目覚めになるのだ。 「…ロゼール、いるのか?」 薔薇の垣根越しに近くなる声に、私は直ぐに答える。 「はい。ここに」 「そうか」 「はい」 「…今日は、空が青いな」 その小さな呟きの後、草を踏むような気配と衣擦れの音が聞こえてきて、この垣根の向こうで仰向けに寝転がったのだろう陛下の麗しい御姿を想像しながら、同じ青へと首を上げる。 「――――――はい」 その青は、まるで陛下の黒の御髪に艶やかに差す青みに似て、神秘的で、壮大で、美しく、迷わされてしまいそうだ。 「こうして空の青を見つめていると、このまま吸い込まれてしまいそうです…」 「ああ、確かにそうだな」 その青に戯れるように流れる雲の白が、鮮やかに陽光を映している。 鳥が一声高く鳴き、私の視界の遠くで、もう直ぐ盛りを迎えようとしているチューリップの群れが、眩い緑の葉を揃って揺らす。 世界から囁かれる音が、陛下と一緒の時は特に優しく感じられた。 「青は好きか?」 「え?」 「ロゼールは、青は好きか?」 陛下が紡いだその言葉に、胸が何かに掴まれたかのように痛くなった。 だって青は、陛下のお色だから――――――…。 「――――――好きです。…とても」 応えながら、どうして私は泣きたくなってしまうのか。 自分の心の事だから、その理由は解ってはいたけれど、素直に認めたくはなかった。 認めても、どうしようもないものだと知っていたから、土を隠すように生える短い草の葉の先を見つめて掻き混ぜて、同じように霧散させた自分の想いの形には気づかなかった振りをする。 「そうか…」 「はい…。シルベストル様は? どのようなものがお好きですか?」 もし、誰もが知る凛々しいお姿のままで陛下が目の前に現れたとしても、きっと心は動かなかった。 もし、そこにいるのが陛下だと知らなければ、さすが矜持の高い貴族の男性だと、偉そうな話し方も聞き流して、こうして時間を重ねる事はきっと無かった。 「私は、――――――そうだな。こうしてロゼールと過ごす時間が好きだ。妹があれば、きっとこのように安らぎを得られるものだったのかと思うと、なお愛しい」 妹…。 私はふと思いつき、 「シルベストルお兄様!」 声を弾ませて垣根へと顔を寄せる。 ところどころに咲く薔薇の花の香りが、甘く鼻孔にまとわりついた。 「ロゼール? 何だ急に」 「あの…、ご要望にお応えして、これからはそうお呼びしようかと思いましたの。いかがですか? シルベストルお兄様」 努めて妹のように、甘えるような声音で可愛らしく言ったつもりだったけれど、 「…不思議だな。ロゼール。あまり嬉しくないぞ」 間を置いて返された言葉に、調子に乗って、何という不敬をしてしまったのかと肝を冷やした。 「あの…申し訳ございません。お好みの言い方ではありませんでした?」 「いや、そういう事ではなくて、だな…」 垣根越しに伝わってくる陛下の唸るような声に、私はどうしたらいいのか全く判らずに言葉を失っていたけれど、 「ふむ。どうやら私は、そなたには名前で呼ばれる事の方が涼やかだ」 「…え?」 「これからも私の事は名前で呼ぶように。良いな? ロゼール」 否と言えないのは、私がシルベストル様を陛下だと知っているからじゃない。 「――――――はい」 これからも名を呼ぶようにと、例え、ひと時の事だと分かるご指示でさえも、こうして、私の胸が喜びに満ち足りてしまうという理由があるからだ。 |