その日は天気こそ良かったが、上空の風は強く、薄藍に映る遠い雲は良く流れ、良く光を帯び、良くそれを遮り、或いは、密偵を放つには心躍る静けさがあった。
「死んだか?」 一報を受けて駆け付けた王宮庭園の最端にある蔦薔薇の垣根の傍で、私の忠実な騎士であるアロイスの足元に切り捨てられた死体を見つけて端的に尋ねると、別の方向から答えが返ってくる。 「申し訳ございません。陛下。なかなか腕の立つ間諜でして、手を抜く事が出来ず、仕方なく逃さない事を優先いたしました」 見ると、そこには血塗れの遺体がもう一つあり、声の主はその塊の横に立つ王騎士団の副長クロヴィスだった。 「良い。肝心なのは、王宮に侵入した者を外に出さぬ事だ」 手を上げて許容を示した私に、実直な騎士二名が眉間を狭めたまま一礼する。 そこへ、控えていたオーブリーが一歩進み出て、遺体へとしゃがみ込んだ後、異国風に見える服を 「どうだ? オーブリー」 「…服は、我がコルベールの仕様ですが、首に下がるアクセサリーはアヴァティ、剣はバルネヴェルト、布袋はロバトの民族織」 「こっちの男は、レンホルムの腰紐と、腕にはカーリアイネンの石も下げております」 オーブリーに続いたクロヴィスの言葉に、私は息を吐いた。 「見事に分けてきたな。外か内か、――――――判断は難しいか…」 「おっしゃる通りです」 仰々しく一礼を入れたクロヴィスに、私は命じた。 「物見を放て。この者らが還らぬ事によってざわつく国や場所がある筈。それで一つや二つは目星がつこう」 「は。仰せの通りに、 騎士二人がそれぞれに命を受領して、王宮へと踵を返しかけた時だ。 「ああ、ダメよ、猫ちゃん。そこの垣根の薔薇に傷をつけたら、お前の首なんかあっという間に落とされちゃうんだから」 ぎっしりとツタに抱えこまれた頑丈な薔薇の垣根の向こうから、突然聞こえてきた明るい声音に、隣にいたオーブリーが私を庇う様に垣根に向かって立ち、歩きかけていた二人も、腰の剣を掴んで垣根の向こうへと意識を向けて睨みを利かせている。 「きゃあ、ちょっと! かけたわね、おしっこ!」 粗相を非難するような言葉だったが、後に続く元気な笑い声でその言い様が遊びである事が伝わってきた。 私が知る女という生き物は、所作も思考も誰かに作られた者ばかりで、淑女としては愚かとされる無邪気さを隠さない溌剌としたその声が、やけに胸の奥まで爽やかに響く。 「一体どうしたの? そんなに興奮して。何か気になるものでも向こうにあるの?」 白やピンクの薔薇の花が咲く垣根の向こうから、こちらの様子を窺うような気配が見えた。 こちらは王宮に続く中庭の端、向こうは、――――――確か洗濯場と呼ばれる広場があった筈だ。 「ああ、ほらダメだったら。垣根にはあまり近寄ってもいけないの」 恐らくは、血の匂いが垣根を越えて漂っているのだろう。 低い位置の枝が僅かに探られた動きがあったが、 「ほら、猫ちゃん」 抱き上げられたのか、抗議にも聞こえる鳴き声が少し遠ざかる。 「今日はお昼に食べ切れなかった鶏肉が部屋にあるの。食べさせてあげるわね」 それを聞いた私は、おやおやと内心で苦笑した。 同時に、隣にいたオーブリーからは嘆息が漏れる。 王宮内に勝手に住み着いてしまった動物に食べ物を与える事は禁じられていた。 どのような対策をしても気が付けば入り込んで来てしまう動物達を、こちらが呼び寄せる材料に成り兼ねないからだ。 「申し訳ありません。管理者に注意しておきます」 小声で宣言したオーブリーに、私は苦笑して返す。 「まだ子供であろう。あまり厳しくせず、きちんと理由を説くように伝えよ。子供とて、禁止する意味が解れば、今後は律するであろう」 「は」 「それにしても…」 思わず、目を凝らすようにして垣根の向こうを探るように見つめる。 「この垣根を隔てて、なんと世界の違う事か」 「陛下? いかがなさいました?」 「…否」 オーブリーの案じるような表情に、私はただ目を細める。 「同じような場所にいて、このように面白く、世界が分かれるものか…とな」 王でありながら、この胸に焦がれるものが現れようとは考えもしなかった。 あの高らかな声の主が見上げる空の色はどのように輝いているのか、いつかあの娘に尋ねてみたいものだと望みを馳せる。 この時は、その機会があるとは特に考えもしないまま、ただ漠然とそう思っていた。 ―――――― ―――― コルベールの国花である白百合を基調として建てられた中央宮殿は、いつもその中にいる私ですら感嘆の息を覚える程に美しい宮だ。 そして、その完成された造形を後ろに、まだたどたどしい子供の足取りで私に駆け寄ってくる者の可愛さは、対比されて好ましく目に映る。 「ちちうえ!」 「アシル」 齢を無事に四つまで数えたアシルは、仰々しい護衛に囲まれながらも、月に一度、後宮から私に会いにやってくる。 王太子として正式に立ち、中央宮に部屋を構えるのは生存率が各段にあがる七歳を迎えてからとの慣例によって、後宮には深夜にしか立ち寄る事のない私とはなかなか顔を合わせる機会ない。 故に、正妃であり、アシルの母であるブランの希望で、親子の時間を陽の高い内にたっぷりとるようにと整えられた時間だ。 「アシル、さて、今日は何をするのだ?」 「はい! アシルはははうえにお花をつみ、たいのです」 「花?」 「ははうえのおたんじょうび、です。ちちうえはなにをさし、さし…さし、あげ、ますか?」 満面の笑みで告げられた息子の言葉に、一時応えを失くす。 「――――――私も、花をあげようと考えていた」 苦し紛れに 「アシルといっしょ!」 ほとんど首を真上に向けて私を見て、弾けるように笑ったアシルに、適当にあしらってしまった事への罪悪感が芽生えて胸が詰まった。 「おにわには、こうきゅうにないおいろのバラがさいていると、ききました」 言われて、少し離れた位置に立つオーブリーへと視線をやると、 「薔薇の垣根の東にある遊歩道の事でしょう。王宮の敷地内には幾つかの種類に分けられて花園がございます。薔薇は今が見頃です」 「そうなのか…」 自分が生まれ育った場所だというのに、そんな事すらも知らなかった。 七歳になるまで、暗殺を恐れた母は病的に私を後宮深くに匿い、王太子として表に出てからも、勉強と、日毎足されていく政務に追われて、足元から隔たり無く繋がっている庭の事すら息子に語ってやれない。 「アシルには、私よりもたくさんの世界を見て欲しいものだ」 低い位置にある青みがかった黒髪を一撫ですると、意味が解らないという風に目を瞬かせたアシルは、それでも差し出した私の手に素直に繋がって来る。 「では薔薇を探しに行こうか、アシル」 「はい、ちちうえ」 私の掌にすっぽりと包まれてしまう幼い手は、温く柔らかい。 「アシルは、言葉遣いを勉強しているのだな」 「はい、ちちうえ。ははうえが、おうたいしとして、ただしいことばをつかえるようになりなさいと、おっ、おしゃ」 「仰って」 「おっしゃって、えと…まいにちべんきょうしており、ます」 「そうか。なかなか上手く使えているぞ」 「はい! ありがとうございます!」 陽の光が当たり、黒水晶のように輝く瞳が私の心に眩しく映る。 この子の世界から見る空も、きっと私が見る空とは違う色をしているような気がした。 「あかいバラは、"あい"です。しろいのは、"そんけい"です」 「アシルは物知りだ。この父よりも花に詳しい」 「はい! こうきゅうにはたくさんのお花があります。アシルはぜんぶいえるのです」 「そうか」 薔薇園へと向かって歩く私達を出迎える、花という花の名とその意味を、文字通り一生懸命に伝えてくれたアシルとの時間は、これまでの時間の中で何よりも綺麗で尊かった。 その薔薇の季節からおよそひと月が過ぎた頃、私は漸く、得難きものとの二度目の邂逅を果たす。 「…駄目よ。お願い。そんな目で見ないで。そんな目で見られても、無理なものは無理なの」 アシルに見せる約束をしていたチューリップ園の見頃を確かめようと、政務の合間に気晴らしを兼ねて歩いていた時、今は黄色の薔薇へと咲き変わった垣根の向こうから、どことなく甘い声音が聞こえてきた。 始めは、男女の逢引の場面かと思ったが、 「わかるわ。私が悪かったの。だって禁止だなんて知らなかったんだもの。ごめんね。あんな柔らかく調理した鶏肉を食べた後だもの。硬い虫なんて微妙よね。 この声は――――――。 「ほんとにごめんね。お前を苦しめる気は無かったの。ほんとよ? 禁止じゃなかったら、ほんとは直ぐにでもお肉をあげたいくらいなの」 「・・・ぷッ」 精査すれば誠実な内容に思えない事もないが、この状況がこの前の続きだとすると、やはり相手は猫なのだろう。 そう考えると、私から意図せず噴き出してしまっていた笑いは、十分な不可抗力として許される筈だ。 「誰!?」 垣根の向こうからの緊迫した声に、私は更に笑いの段階を上げてしまった。 猫に甘く囁いた直後の、場違いすぎる大袈裟な警戒の声。 その違いがあまりにもおかしくて、腹の底から笑いが押し出されてくる。 ああ、こんなに全身で楽しく笑ったのはいつ以来だろうか。 私の笑い声を空に攫うように、初夏の青に風が巻き上がる。 白い雲がゆったりと流れ、木々が揺れ、木の葉が囁き、鳥が鳴く。 そんな穏やかな景色の中で私が 「――――――くく、いや、驚かせたならすまなかった、 「あ、あの、私、規則は破っていません! 本当です」 「ああ、解っている。ちゃんと聞いていた」 ひと月前、白とピンクの薔薇が揺れていた垣根は、今は種類の違う黄色の小ぶりの薔薇が咲いていて、あの時よりも彼女の声に似あう色だとふと思う。 「そなた、名は?」 「え?」 「何も罰を与えようというのではない。ただ問うてみたいが、答えをくれるか?」 努めて優しく言ったつもりだったが、たっぷりとした間合いの後も返事は無く、 「余程怖がらせたようだ。私はこの場を離れるから、とくとその子と話をするが良い」 多少の気落ちはあったが、特にこだわって聞き出す必要はないとも思い至り踵を返そうとした時だ。 「あの! …私は、ロゼールと申します」 「ロゼール?」 「はい。ロゼール・ラフォン…です」 ラフォン。 ラフォンと言われて直ぐに思いつくのは、ラフォン子爵家。 バルネヴェルトとの国境付近に領土を持つ歴史ある家名だ。 「そうか」 暫くの沈黙の後、 「あの…」 遠慮がちに切り出されたのは、 「あなた様のお名前は――――――」 「…ああ!」 外国からの来賓が無い限り、私が名乗る事は滅多にないから失念していた。 「私はシルベストルだ。ぁ」 反射的に名乗った直後、失策だったと顔を顰める。 私の素性を知る事により、先ほどまでに耳にしていた、あの朗らかな語り口調や笑い声が、もしかしたら隠されてしまうのではないかと思ったからだった。 「…シルベストル様…ですか?」 「…ああ」 「あの…」 何を言われるのか、方向性が予測出来て、向こうからは見えてない筈の顔に苦笑を浮かべた時だ。 「あの…、本当に私、この子にお肉は与えていませんから。ちゃんと私、我慢していますから」 ロゼールの必死ながら、微妙に見当違いの物言いに、私はまた、腹を抱えて笑い出す始末となった。 |