―――――― ――――― 「リアーヌ。話というのは他でもない。お前の婚姻の事だ」 とある冬の日の午後。 父の書斎に呼ばれた私は、切り出された話題に、とうとう来たかと泣きたくなった。 「お前がその気になるまではと構えていたが、そろそろ侯爵家として断り切れん話もある。色んな意味で、会話をしておきたいと思って呼び立てた」 「…はい」 「"とにかく顔合わせだけでも"と。こちらの都合で断り難い話が二つ。アヴァティ国第三王子と、もう一つはロバト国公爵家、これは王妃様のご実家からの口添えがあり、恐らく、会えば殊更に断れまい」 「え…?」 それはつまり、王命にも似た効力がある事を示している。 「……」 本来なら私は、侯爵令嬢として家の意向を快諾すべき場面だ。 "お父様のご指示通りに" そう言わなければならない場面…。 「お父様…」 "侯爵令嬢…か" 二年前、私のデビュタントでお会いした際の、眉を顰めたジェラルド殿下の顔が痛みと共に思い出される。 「お父様…」 "リアーヌ嬢。少し…時間が欲しい" そのようにおっしゃった殿下に、一体どのような時間が必要だったのか、結局私には分からないまま。 数日たった後、"望みなき恋"と送られてきた伝言に、私は 「…お父様」 それでも、 「お父様、わたくしは…」 それでも、あの方に向かって行く想いを、私自身ではどうする事も出来ない。 「わたくしは、どなたとも結婚したくはありません。どうか役立たずの娘と打ち捨てて、侯爵家から籍を抜いていただき、修道院へお送りくださいませんか?」 切なる思いを込めて伝えた私に、父は眉間を寄せた表情で小さく首を振った。 「それはならん」 「そんな…」 まるで私の息の根を止めるかのようなその答えに、喉の奥が痛みを抱える。 「なぜ…ですか?」 「わたくしが神に嫁ぐとなれば、求婚してくださっているどなた様のお顔も立つはずです」 私の言葉に、今度はただただ小さく息を吐く父は間をおいてから口を開く。 「面目の話ではない」 「お父様・・・?」 「修道院に行く事は、絶対に許さん」 きっぱりとした言葉に、絶望に近い悲しみが、じわりと胸に溢れてくる。 それが涙となって目に溜まるのはあっという間で、 「だが――――――」 けれど、正面にいた父の口調が少しだけ変わった。 「その他については叶えてやろう」 思いがけない言葉に、 「え…?」 私は真っ白になった思考のまま、父からの綴りを待った。 「リアーヌ、我が娘よ。幼い頃より敏く賢いお前の事だ。修道院に行きたいなどと、それが望まぬ婚姻を断る為の"ただの我が儘"である筈はない。苦悩の果て、そして余程の覚悟があってこその発言だろうと、父は解っている」 「では」 希望のような光が見えた気がして、思わず口を挟んでしまった私に、父は再度首を振った。 「それでも、修道院へ行く事は許諾できん」 「…ぁ」 返されたその言葉を理解すると同時に、制御出来なくなった涙が膨張して視界を塞ぎ、父の姿を揺らしていた。 それを含んで膨れ上がった涙が崩壊して頬に落ち、そうして漱がれた視界の中で、今度ははっきりと父の表情が確認出来る。 「…お父様?」 怒っているだろうと、想像していた表情とは明らかに違うその顔に、私には戸惑いしか無かった。 「そのように泣くな、リアーヌ。私はただ、閉ざされた世界に引き篭もる前に、もう少しこの世界を見ていて欲しいと願うのだ」 「…この、世界を?」 ただ言われた事を反芻するように返した私に、父が僅かに顎を引いた。 「そうだ。心配は要らない。お前には、結婚という形で誰かの庇護を受けずとも、この父がいるではないか。私が健在である限り、お前の生涯は安泰だ。穏やかに暮らすには何も支障はないし、それに…」 言葉を切ると、父は口元にほんの少しの笑みを携える。 「私に"万が一"があろうとも、お前の兄も、頼りになるぞ?」 「え?」 促されて部屋の扉へと顔を向けると、そこには兄と母がいて、 「お母様…」 「ああ、リアーヌ」 近づいてきた母が、私の濡れた頬に指先を添える。 「わたくしの可愛い子。こんなに思いつめるまで悩んでいたなんて、お母様は怒っていてよ?」 そして、その隣に歩んできた兄も、私を慈しむような優しい笑みで頷いた。 「私もだよ、リアーヌ。妹のお前に頼りにされないなんて、私はそんなに非力な兄に見えるのかと、己にがっかりしたところだ」 「そんな…わたくしは」 ただ、身勝手な言い分を口にしたくなかっただけ。 願いを綴れば、きっと叶ってしまうから、だから、自分の弱さに負けてそれを口にする前に、逃げ出そうとしただけだ。 「リアーヌ。あなた…どなたか、心に決めた方がいるのかしら?」 母はそう尋ねてきたけれど、既にそう確信しているのか、薄茶の眼差しからは答えを求めようとする強さは窺えない。 それを引き継ぐように、兄が両腕を組んで薄い眉根を下げながら首を傾げて思考する。 「さて、デビューして二年経った今でも、その容姿だけでお前を妻にと求める縁談は国内に留まらず、外国からも降るようにある。それに加えて、権威も財も世間では一目置かれている我がデュトワ侯爵家の令嬢であるお前が、恐縮して私達に言い出せない相手となると…」 探るような兄の 「…まさか、エドワールか?」 「リシャール、呼び捨てとは、王太子殿下に対して不敬だぞ」 「ああ、失礼しました」 父に咎められ、胸に手を当てた兄は、窓の向こうの彼方に敬意を払うような一礼をして、それから直ぐに私へと視線を向き直す。 「つまり、お前の恋煩いの相手は王太子殿下なのか?」 すると、それに押されたかのように、母が「まあ」 と声を上げた。 「思い返せば、あなたが心ここにあらずという デビュタントの夜――――――。 遠くなりかけた思い出を求めれば、心が痛く泣いてしまいそうだったけれど、 「違います」 相手が違うから、冷静に否定できた。 「ではアレオン公爵家の?」 「父上、シャルルは最初に縁談を断った相手ですよ」 「おお、そうだったな」 「あなたったら。ではあの方は? ラクロワ伯爵家の」 「母上。ご自分が推挙されたい方をここぞとばかりに引っ張り出すのはおやめください」 「だって、親友同士の子供の結婚って、やっぱり憧れるでしょう?」 「彼はまだ十三歳です。万に一つ、父上が乗り気になったとしても、リアーヌの安寧の為に、私は断固として反対しますよ」 「もう!」 それからも、次々と高名な令息達の名前があげられたけれど、私の想いがある場所からはかなり離れてしまった。 家族から見た 「…わたくしに、想う方がいるのは隠しません。ですが、わたくしは決して、この想いのままにあの方を望まないと決めているのです」 あの方への想いは、まるで私の血潮のようにこの身の内にある。 光に、風に、そして流れた月日に揺られ、儚く散らされても、僅かにも色褪せずにこの恋を抱えたまま生まれてきた私は、息をするようにあの方に手を伸ばしたくなる。 けれど、あの方がずっと焦がれ、強く欲していたものを、私だけが知っていた。 そして今、それを手にしているあの方に、 何度かの邂逅と、幾度か交わしたキスだけで、悠久に私の心を捉えてしまったあの方の事は、少しは憎らしくはあるけれど、姿を見れば…いいえ、その存在を思い返すだけで、どうしても愛しんでしまうから…。 「このように身勝手な我が儘で侯爵家令嬢としての責務を放棄しようというわたくしを、…本当によろしいのですか?」 父と母、兄へと順に視線を向ければ、どの顔も私への愛に満ちた目が出迎えてくれて、 「ありがとうございます。今後は、何か一つでも、侯爵家のお役に立てるような事柄をわたくしなりに見つけようと思います」 「それでいい」 新たな私の決意に、感極まった様子の母を抱き寄せた父が大仰に頷いて応え、兄は私の頭を慰めるように二度たたいた。 ―――――― ――――― 「リアーヌ。話があるの。いいかしら?」 卒業式を前にした夜、母が突然に私の部屋を訪ねてきた。 「…あら、刺繍をしていたの?」 「はい」 「見せて? まあ、古典柄ね。――――――でも、私が知っているものとは少し趣向が違っているわ」 「これは、大陸統一前に流行っていた図柄です」 「統一前の図案なの? よく手に入ったわね」 「…学園の図書館に」 「そうなの。そんなものが保管されているなんて知らなかったわ。統一後は何もかもが刷新されたらしいから、数が揃えばきっと圧巻ね。ああ、いいのよ、そのままで」 椅子から立ち上がってソファへと席を整えようとした私に、母は立ったまま口火を切った。 「リアーヌ。私、あなたの正直な気持ちを聞かせて欲しいの」 「え?」 「もしかしてあなたの想い人というのは、第二王子のジェラルド殿下かしら」 まるで不意打ちのようなその問いに、息を止めたのは一瞬。 「…まあ、違いますわ、お母様。どうして…」 いつもと変わらないつもりで返したのに、 「やっぱりそうなのね」 私の言葉を最後まで待たずに、母は深い溜息を一つ吐く。 「あなたが修道院へ行くとお父様に話していたあの日、デビュタントの話が出たわね? あの後、そういえばと思い出したの。デビュタントから何日か経った頃、ジェラルド殿下からあなた宛てにお花が届いた事を」 「…」 違います、と。 声にしたいのに、言葉にならない。 「送られてきたチューリップの花束を見て、あなたはただ小さく微笑んでいたけれど、夕食の時には目が真っ赤だったわね。目を擦ったと言っていたけれど、本当はずっと泣いていたのではないの?」 「…お母様…」 「デビュタントのご令嬢全員に贈られたらしいとあなたが言うから、ジェラルド殿下からのただの儀礼的な贈り物だと鵜呑みにしていたけれど、本当は、あなただけに意味があって送られたお花だったのね?」 ゆっくりと、ドレスを持ちあげながら近づいてきた母は、眉根を寄せながら私に言った。 「お父様にも、リシャールにも内緒にするわ。女同士。二人の秘密」 「…ぁ」 「どうか一人で抱えて悲しまないで、リアーヌ」 「お母様…」 "会えて嬉しい" デビュタントの夜、そうおっしゃった殿下から、数日後に送られてきたのは"黄色のチューリップ"。 まるで陽の光のように輝く黄色のチューリップに込められたのは、 「わたくし…、わたくしは…」 「リアーヌ…」 "侯爵令嬢…か" 殿下のまだ十四歳という若さが前面に出た赤黒く稀有な宝石のような眼差しは、決して正面に私を見なかった。 "二つ、年上なのだな…" 私が答えて俯けば、殿下は小さく息を吐いて、 "少し、時間をくれないか" "…はい" 二人きりで会話が出来たのはたったこれだけ。 全てがほんの短い時間だったのに、殿下の表情がまざまざと色を失くしていくのを見ていた私にとって、それは悠久よりも長く感じられた。 幸せな時間はあっという間だと、身を以って知っていた私だからこそ、長く感じてしまう時間の意味も良く知っている。 きっと、私達の出会いは、殿下にとってあまり望ましいものではなく、むしろ負担にも思えるものだったのだろう。 そう感じた瞬間から、やはりこの方とは、寄り添って 「これは、望みなき恋、なのです…」 だから、あの方から |