小説:望みなき恋と光㉑

リアーヌ㉑

 ジェラルド殿下にもう一度お会いしてみたい。

 フランシーヌ様がお帰りになった後、兄と一緒に改めて母に相談し固めた決意の元にデュトワ家から王宮へと出した使いへの返事は数刻も経ずに異例の速さで返ってきた。
 しかも、デュトワ家の門を叩いたのはジェラルド殿下の腹心と呼ばれている従僕ロイク・アルカン様。
 子爵家の生まれであるアルカン様の身分はデュトワ家より下ではあるけれど、この場合は爵位ではなく、王家の人間がどれだけ自身の懐に近い人物を出すかどうかで事態を量れるものは確かにあるという事が肝心で、特に、前(さき)の夜会での出来事があっただけに、世間の耳目を気にすれば、使う人間の選別は重要だった筈だ。

 『リアーヌとの事を本気でまとめにかかっていますね』

 笑いをかみ殺しながらの兄の言葉に、母は苦笑し、その母の肩を抱いた父が難しい顔をしながら短い息を吐いた光景は、まだ鮮明に私の記憶のすぐそこにある。
 この、通常訪問のやり取りでは考えられない破格の待遇はつまり、デュトワ家が特別であると世間に知らしめる事を憂慮していないジェラルド殿下の指針が窺えた。



 「ようこそおいでくださいました、リアーヌ様」

 翌朝、王宮外壁の内側にある囲い道を辿った先に専用口として設けられている幾つかの小門の内、指定された門前に停車した馬車から降りた私を人当たりの良い柔らかな笑顔で出迎えてくださったのは、喉元まで隠した山吹色の制服に、実用性のある薄手の外套を羽織ったロイク・アルカン様で、

 「殿下は花の離宮にてお待ちでいらっしゃいます。どうぞこちらへ」

 指先まで気を注いだような美しい所作で示された先へと、私は促されるまま足を進める。

 「御足もとにお気を付けください」
 「ありがとうございます」

 まだ朝夕は冷えるため、私も、正装用の中でも比較的動きやすいドレスの上から襟元に毛皮のついた丈のある外套を羽織っていた。
 その二重分の膨らみが気になる程の、王宮の外来用の門としては幅の狭い、けれど、刻まれた薔薇の模様がとても目を惹く乳白色の門を潜り抜けると、そこには細い小路が石畳によって整えられていて、

 「まあ…」

 見渡す限りに、美しく刈り揃えられた薔薇の垣根が連なっているその景色は、思わず感嘆が漏れる程に素晴らしい。

 「いかがですか? この花の離宮に続く一画は王宮内においても特に美しく造形されています」

 思わず立ち止まってしまった私に、同じように足を止めて振り返ったアルカン様が少し誇らしげに微笑んだ。

 「はい。とても目映い美しさですわ」
 「先ほどの門は、通常は開く事はありません」
 「え?」
 「王室内覧の文献によりますとあの門は、この平定の時代の始祖であるシルベストル王が唯一の方の為に作られたのだそうです。これからお連れする花の離宮に、その方が安全に身を運べるようにと…。ですが結局、シルベストル王の御世では一度も開く事は無かったと――――――これは殿下から伺った事ですが」
 「ジェラルド殿下が…」

 かつてのシルベストル様がそう言うのなら、間違いないのだと思う。
 ロゼールが王宮に出仕していた頃と主要な宮殿の配置はあまり変わってはいないけれど、それを取り巻く門の位置や道の巡り、庭の設計はかなり違っていた。
 王宮を守るように聳えていた薔薇の垣根は今や区切られて植え替えられ庭を形成する一部となり、その向こうにあったロゼールの休憩場所でもある洗濯場近くの広場は、面影を探す事すら難しい。
 遊覧区画として薔薇の庭が開放されたあのデビュタントの日、ロゼールの存在を確かなものにする為に求めた薔薇の垣根の片鱗は、過去とあまりにも違い過ぎて、まるで見知らぬ場所となってしまっていた寂しさに、つい懐かしい子守歌を口ずさんでしまい…その最中に、今世のシルベストル様であるジェラルド殿下と出会ったのだ。

 「リアーヌ様?」

 無言になった私を心配したのか、アルカン様が表情を窺うように上身を僅かに傾けてきた。

 「どうかなさいましたか?」
 「いいえ。開く事も稀なる門を使わせていただいたとの事。畏れ多くも殿下の御心を量り、思案しておりました」

 苦し紛れにそう応えると、アルカン様は穏やかに目を細める。

 「ご心配には及びません。この門は、我がコルベール国の直系、つまりは、祖シルベストル王の子孫が望む場合に限り、王族の審議の結果でもって使用は認められている門でございます」
 「え?」
 「参りましょう。殿下がきっと首を長くしてお待ちですよ」
 「…はい」

 再び歩き出したアルカン様について、私もゆったりとドレスの裾を捌く。
 物々しい印象はないけれど、やはりデュトワ家の屋敷を守る私兵とは雰囲気を違える国の兵士達が、高い壁に沿って等間隔で並び立っているのが意識して探せば見つけられた。
 彼らはまるで息をしていないかのように静かで、そしてその制服姿は、シルベストル様が治めていた時代とあまり変わっておらず、

 『ロゼールッ!』

 まるで稲光のように、ロゼールから受け継いだ記憶が急に弾けて思考(わたし)に散った。
 ほんの一房ではあったけれど、シルベストル様と二人で垣根の前で会っていたあの最後の逢瀬の日、ロゼールは見慣れていた味方である筈の象りに、命じた者からの悪意を間接的に向けられ、髪を切られたという経験がある。
 あの時は色んな感情が混ざり過ぎて、それが見えない傷になっているとは気づかなかったけれど、”ざくり”と、得体の知れない重さがあったあの音は、かつての夫から乱暴を強いられた際に、頭の中で何度も響いていた事を思い出す。

 「リアーヌ様? 何かございましたか?」
 「…いいえ。初めての場所なので、緊張しているのかも知れません。何度もアルカン様の足をお止めしてしまい、申し訳ございません」

 僅かに乱れた私の歩調に気付いたらしいアルカン様に当たり障りなく返しておく。
 この敏さが、ジェラルド様の目に適っているところなのだろう。

 「――――――いえ。もう直ぐですので」
 「はい」

 平静を装いながら、自分の中に芽生えている不協和音をゆっくりと整理していく。

 信じていた象徴に、髪を切られた時のあの不気味な音が、今も私の耳の奥にあった。
 そしてその記憶が、この兵士達が背後から襲ってこないかと、今の時代には有り得る筈もない事態を妄想させる。
 あれは、優しい家族に囲まれ、守られるようにして育ってきた現世のリアーヌが、触れる筈もない敵意の具現。

 その不快さが齎すものは恐怖ほどではないけれど、未来に暗雲を示されたような苦しさを感じてしまうのは、ロゼールが持つ記憶のせい。
 呼吸を整えようとしても、強く打ち始めた鼓動がそのまま、私の肩を強く上下に動かしてしまう。

 『ここで、私を待つ為だけに生きていればいい』

 鐘のように蘇るのは、ロゼールのかつての夫の声だ。

 婚礼をあげたその夜の内、心も体も疲れ果てて眠っていた間に地下に移され、それなりの調度品が整えられた、広さだけは十分な間取りに、見張りを兼ねた老女が一人、世話係として配されていた。
 室内以外のどこを見る事も出来ない密閉された地下での生活は恐ろしいくらいに単調で、ほどなくして気鬱を手招く。
 夫がくれば相手をし、子を宿せば放置され、産んで体が回復した頃には子は取り上げられ、再び夫が通ってくる。
 ひたすらにそれを繰り返したあの十二年という歳月は、毎日が種類を変えた悲しみの繰り返しだったとしか語れない。
 心を救ったのは、薄れて消えそうになるのを必死で引き留めていた、シルベストル様との僅かな思い出。

 そしてもう一つ――――――、

 ”かあ様”

 「…ヌ、…リアーヌ?」

 ”かあ様”

 「リアーヌ!」

 「ぁ、はい!」

 強く名を呼ばれ、反射的に意識を現実に帰らせると、目の前には鮮やかな赤黒い眼差しがあった。

 「…え、殿、下…?」

 いつの間に、私は建物のエントランスに足を踏み入れていたのか。
 アルカン様は既に視界の端で居住まいを正して控えの体勢をとっていて、応接の間であるらしい殿下の肩越しに見える向こうでは、陽の光が良く似合う薄桃色の花柄のソファセットの側で、給仕らしい女性が二人でお茶の支度を進めている。
 私の内側とはあまりにも違い過ぎる明るい世界の色に、じわりと涙が溢れそうになった。

 「リアーヌ、顔色が良くない」

 シャツにベストという、驚く程に軽装だったジェラルド様の腕が伸ばされる。
 ロングブーツの足が私の方へ一歩踏み出して距離が詰められれば、その指先は容易に私の頬にあてられた。

 「ここに来る事、そんなに無理を、させてしまった…?」

 優しさが窺える眉根の動き、気遣ってくださっている事が沁みて分かる声音に、体が崩れそうな程の感情が私のどこかから湧き上がる。

 「いいえ…」
 「リアーヌ?」
 「いいえ…ッ」

 あの頃のロゼーヌが、何よりも求めていたものがここにあった。
 会えば自身を慈しんでくれるだろうと、ロゼールが誰よりも信じられた人。
 そして、姿形は変わっても、今もそうであって欲しいと、記憶からの衝動が背を押して、信じたいと願う存在(ひと)――――――。

 ”もう一度だけでいい…シルベストル様にお会いしたい”

 過去から、ロゼールの声が私に願う。
 それを皮切りに、暴かれて晒される遠い記憶。

 『お願いですッ、旦那様! その子だけはッ、――――――その子だけはどうかッ』

 地面を這って夫の足元に縋りながら、髪を振り乱して懇願したロゼール。

 『かあ様ッ! かあ様ッ!』

 乱暴に抱えてられて扉の向こうに消えた幼い子供。

 『いや、…いやあああぁぁああッ』

 頭を抱えて蹲るロゼール。

 ”…シルベストル様…”

 口に出来ないその名を心中で呼んで、何度助けを求めただろうか。
 日が経つにつれ、膝を抱えて何かに還ろうとするロゼールに、ある日夫は無表情で言った。

 『お前の役目は終わった。ここにもう用はない』

 石になる心。

 『これが、最後のお食事となります、ロゼール様』

 砕けて、さらさらと地に落ちる砂になった心。

 ”シルベストル様…”

 ――――――お会いしたい。

 ぼんやりと立ち尽くしていた私の中に、はっきりとしたロゼールの意志が浮かび上がった瞬間、

 「ロゼール」

 不意にジェラルド殿下の声で紡がれたその名は、

 「…ッ」

 大きく私の心をかき混ぜた。

 「殿下…」

 目の前にいるのはジェラルド殿下なのに、ロゼールは、その中にいるシルベストル様を認めている。

 ――――――求めている…。

 「ロゼール」

 指先から与えられる温もりから逃げようと、私は、ゆっくりと首を振って一歩下がった。

 「ロゼール?」

 傷ついたような表情で見つめてくるジェラルド殿下に、チクリと胸が痛む。

 「…近づかれるのも厭うくらい、僕が嫌い?」

 今にも泣きだしてしまいそうな表情のジェラルド殿下に、私はまた首を振った。

 「リアーヌ…」

 二人の間に、お互い以外の存在が混在している。

 ロゼール、リアーヌ、シルベストル、ジェラルド。
 現世(ここ)にいるのは、本当はどちらなのだろう。

 私がリアーヌであるという確信が、今は問われても口に出せそうになかった。

 ”お会いしたい”

 ロゼールの願いが、遠くから私の中を揺らしている。
 ジェラルドの手を取れと、誘惑の香りを発している。

 「だめ…」

 身体は、両腕を伸ばして飛び込んでしまいそうになっているのに、それでも、初めて会った時と同じ戸惑いが、私の良心を強固にした。
 この方は、国を背負うという重圧と、家族の死に囲まれて人格を形成したシルベストル様とは何もかもが違う。
 王家の血筋を持っている事は変わらずとも、孤高という毒に塗れたシルベストル様とは違うのだ。
 ジェラルド殿下が前世の記憶を持っているとしても、それはシルベストル様の経験が全て。
 王宮を致仕した後のロゼールの人生がどんなものだったか、どれほど光の無いものだったか、この方は知る由も、それを知る術も無かっただろう。

 ”もし私の前世の愁いを、二つも年下のこの方が知ってしまったら…?”

 あのデビュタントの日、そう考えてしまったからこそ、魂の再会に切なく心が高鳴っても、舞い上がるような喜びに満たされる事が私には無かった。

 『リアーヌ嬢、少し、時間が欲しい』

 提案されたその内容には、ロゼールの事を想えば言い尽くせない感情はあったけれど、悲しみだけではなく、確かに安堵もあったのだ。

 ”望みなき恋”

 届いた黄色のチューリップに涙が止まらなかったのは、ロゼールの想いを悲しみながらも、それにホッと息を吐いた自分の偽善的な弱さに落胆したからでもある。

 「貴女は、不思議な人だ」
 「…え?」

 唐突に意味の解せない言葉を発せられたジェラルド殿下に、私は思わず目を合わせてしまう。
 赤黒い稀有な眼差しが、僅かに細められて私を見つめていた。

 「百年に一人の淑女と謳われながら、僕の前ではそうじゃない」
 「!」

 浅はかさを見透かされたような気がして、私の身体は硬直してしまった。
 まるでそれを想定していたかのうように、ジェラルド殿下がゆっくりとした動作で私の右腕を肘辺りからとって微笑む。

 「ねぇ、リアーヌ」

 手首にかけて、ジェラルド殿下の指先が移動した。
 気が付けば指先をしっかりと握られて、そのまま笑みを湛えた唇の前まで持ち上げられてしまう。

 「今、この手に感じている震えが、貴女から僕に向かって溢れてきている想いの証の鼓動なら、とても嬉しい」
 「殿下…」
 「ジェラルド」
 「…ジェラルド、様」

 私の指に、ジェラルド様の唇が形を変える程に強く押し付けられた。
 その口づけの長さに、私は時が止まったのかと錯覚したけれど、ふらりと倒れそうになって、流れて進む現実である事を知る。

 「来て、リアーヌ。この宮が、なぜ花の離宮と呼ばれるのか、見せてあげる」

 楽し気にそう言った殿下は、私の手を掴んだまま歩き出した。
 逆らう術もなく、私はジェラルド殿下の後について行くしかない。
 遠巻きに、アルカン様もその身を移動させ、殿下が近付いて来た事に気付いた侍女達が手を止めて深く一礼する。
 ジェラルド殿下はその間を無言のまま進んで、そしてバルコニーへと私を誘い出した。

 「ジェラルド様…?」

 ダンスをリードするように、私を手で操って、手摺りへと近づけさせる。

 「シルベストルがかつて、ロゼールを想う為に整えた場所だよ」
 「え…?」

 ジェラルド殿下の視線に促されて、離宮から臨む景色へと目を向けた。

 「――――――嘘…」

 私の目を通してロゼールが見たのは、眩しい程の黄色の溜まり。
 薔薇の垣根や、高低差が工夫された様々な種類の花の花壇、その巡りから噴水までの小路が夢のように美しい、小さいけれど、端正に作られたその庭の向こうに広がっていたのは、群生した黄色のチューリップから放たれる、キラキラとした光の海だった。

 「シルベストルは、死ぬ際までロゼールを想っていた」

 少し低くなったジェラルド殿下の声に、私は思わず振り返る。

 「最後の息を零す瞬間まで、ロゼールに出会えた事に感謝をしていた」
 「シルベストル様…」

 ロゼールが知らなかった事が齎される。
 私とジェラルド殿下が語り合うという事は、離れて生きた二人の時間を結ぶ事でもあるのだと、新たな意味を理解した。

 「ロゼールはどうだったのか、聞いてもいい?」
 「殿下…」

 まるで宝石のような赤黒い眼差しが、僅かに揺れているのが見て取れる。
 中央に寄った眉根が表すのは、知らなかった事を知ろうとしている現実への不安。

 「――――――ロゼールも…」

 記憶を手繰れば、悲しみも全て乗り越えて穏やかだったロゼールの想いを、とても鮮明に拾い取れる。

 「ずっと、シルベストル様をお慕いしていました。本当に、ずっと、最後まで…」
 「最後…」

 ふと、ジェラルド殿下の息が止まった気がしたけれど、私は意志を強くもって、改めて口を開く。

 「最期は、空の青に焦がれながら、息を引き取りました」
 「…――――――そう」

 その応えが返るまでの間は、きっとジェラルド殿下にしか分からない思いの丈が含まれているのだろうと、私は涙が溢れた視界の中に、その赤を纏った美しい存在をぼんやりと見つめていた。



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