小説:望みなき恋と光①

リアーヌ①

この世界は、大きな一つの大陸を、まるで花の花弁のように平等に分け合った六つの国家によって治められている。
私が生まれ育ったのはそのうちの一つコルベール王国で、この国から内陸に向かって左手にアヴァティ王国、その向こうにロバト、レンホルム、カーリアイネン帝国、そしてコルベールから右手にあるバルネヴェルトで大陸は一周。
六カ国はそれぞれが海にも山にも面していて、風土も文化も法律も宗教も、各国で違いや特色はあるけれど、どこの国民も先祖からの決め事という導きで幸せに暮らしている世界だ。

王立図書館の奥深くに保管されているコルベール歴史原書によれば、言語すら異なる六つの国がそれぞれに発展し、戦争と和議を繰り返していた大陸四百年の歴史に圧倒的な力でもって終止符を打ったのは、当時のカーリアイネン国第十七代国王であるという。
要約すると今から二百年程前に変革を求めたその王は、軍事国バルネヴェルトを従えて他四カ国に戦争をしかけ、十年かけて大陸統一を成し遂げ、この世界を作り上げた。
つまり、もっと正確にこの世界を語るとするなら、ここは、主国カーリアイネン帝国の統治下において、他五つの国が属国として従っている世界。
それでも、後世における戦争回避を目的に、六カ国の間に公平な婚姻統制を布(し)く事を主国の采配とし、それに従う義務を課しただけでそれぞれの国には自治を認めたのだから、犠牲も多かった十年に渡るその戦いが本当に私利私欲の為ではなかったと、歴史書は確かに証明している。

「お聞きになりました? 昨夜、第三王女殿下が主国カーリアイネンの皇太子殿下に嫁がれるとの旨が、国王陛下の御名(みな)において正式に布告されたそうですわ」
「ええ。我が国の王太子殿下にはご正妃にバルネヴェルトから王女殿下をお迎えになる予定ですし、これで数十年は国の北側が静かになると、今朝父が申しておりました」
「カミュ一族の愛国心は尊敬いたしますが、北のバルネヴェルトへの恨みが根深過ぎるのが瑕ですものね。辺境伯をなさっているお父上の御心労が少しは軽減されるといいですわね」
「ですがこれにより、北と南にある関税格差について議論する口実がバルネヴェルトに与えられた事になりますわ。母の実家のこれからの苦労が目に見えるようで・・・」
「そういえば、男爵夫人はロバト王国の商家の御出身でいらしたかしら」
「はい」
「今あちらに新しい手触りの生地が出回っていると聞いたのですがご存知?」
「絹(ソァ)の事でしょうか。いつもながらお耳が敏くて驚きますわ。端切れでよろしければ新色をお見せ出来ますけど・・・」
「まあ! ぜひお願いしたいわ」

かつてとは違い、現在のコルベール国は女性にも立身出世が寛容に認められていて、そういう風潮で育てられた令嬢達は淑女としての教養はもちろん、知性も好奇心も大いに育まれているから、こうした学園内でのささやかなお茶会の話題も大なり小なり目まぐるしく変わっていく。
大陸の流通を興味深く勉強中の件(くだん)の男爵令嬢がロバト国から入手したという紅茶を飲みながら、目の前で繰り広げられる学友達の会話をただただ黙して聞いていた私の耳に、ふと、騒がしい一団の声が入ってきた。

視線だけを上げて見ると、学舎からこの中庭へと通じる薔薇の遊歩道を数人の一団が歩いてくる場面で、中心にいるのは、黒に赤みを帯びた不思議な光沢の髪を持つ美少年。
その周りでは、デビューしたばかりのまだあどけない少女達が麗しい彼の後先を競いつつ、ドレスを揺らしながら蝶のように舞っている。

「あら、殿下のお出ましね」
「数日見ない内に、また取り巻きの数が増えたのではなくて?」
「それはそうよ。ご兄妹の婚姻統制への御供(ごくう)によって、殿下は国内外から自由にご正妃を選べるお立場が確約されたも同然。私の妹も目の色を変えていたわ。周囲がそんな空気ですもの。ここぞとばかりに、殿下はきっとますます”お励み”になるわね」

一人の公爵令嬢の言葉に、この場にいるほとんどの令嬢から微かな笑いが漏れ聞こえた。
それは、嘲笑ではなく、不出来な弟を見守るような優しい雰囲気のものだ。

彼は我がコルベール国の第二王子殿下、ジェラルド・コルベール様。
数々の女性を渡り歩く事で有名でありながら、何故かそれを眺める女性達には嫌われない。
まだ十六歳という年齢だからか、それとも無邪気な性格が顕れているのか、髪とほぼ同じ色の妖しげな色気を含む勝気な赤黒い眼差しはとても魅力的で、健康的な肌色、その肌に影を落とす美しい鼻梁、蠱惑的な笑みを象る薄い唇、どれを語っても、美しいのがジェラルド殿下だ。

「十六歳であのお盛んさは一つの才能ですわね」
「本当かどうか、いずれ陛下から賜る領地に女性を囲う為のお屋敷を建てようかとおっしゃっていたらしいわ」
「今年成人なさって、夜会にお出ましになるようになってからは、堂々とご婦人方も相手にしていらっしゃるようだし」

噂に違わず、令嬢の髪を代わる代わる手に取ってはキスをして、何かを囁き合い、クスクスと笑いを零すジェラルド殿下は――――――、

「とても・・・、お幸せそうですわ」

二年先に生まれてきた私よりも、ずっと人生を謳歌している。

「まあ」
「リアーヌ様がそのようにおっしゃるなんて」
「その憂えたお顔は私達にさえ凶器ですわ、リアーヌ様」
「まさか、どちらかの殿方に恋でもなさったの? リアーヌ様」

頬を染めた令嬢方に口々に囀られて、私は目を細めてゆったりと微笑み返した。

「わたくしに、このような情けない顔をさせる悩みといえば、お兄様以上の素敵な殿方に、まだ巡り会えていない事でしょうか」

六つ年上の私の兄、リシャール・デュトワは金髪碧眼の容姿端麗、くわえて侯爵家の跡継ぎで、更に王太子殿下の側近でもある。
この学園に在学していた時は生徒会長を二年間務めあげ、先輩後輩に慕われたそつのない性格と、女性をエスコートする時のスマートさは令息令嬢の間でも評判で、そうなると当然ながらその当主夫妻を交えた社交界でも花形となる。
誇らしいけれど、兄が女性にとって望ましくあり過ぎるお陰で殿方に対する理想が高くなって困るのだと、誰もが納得する事を悩みとして打ち明けて話を逸らせば、令嬢達は揃って息を吐いて共感してくれた。

私の名前はリアーヌ・デュトワ。
コルベール国に長く続く侯爵家の娘で、今年十八歳になった。

この国の貴族は男女共に成人とみなされる十六歳で社交界にデビューし、女性の婚姻の適齢期としては二十歳までが花とされている。
女性も上位に立つこの世界で、一般的に独身を通す事に差別はないけれど、それでも、高位の貴族令嬢として貴族籍に名を連ねる私に婚約者がいない事実は、そろそろ両親を悩ませている筈だ。

だからこそ、この想いは誰にも知られてはいけない。
私があの方を、

――――――ジェラルド様を想っている事は、決して悟られてはいけない。

知られれば、直ぐに外堀は埋められてしまう。
自由に生きようとする奔放なジェラルド殿下の正妃には、彼自身をうまく御せる後ろ盾のある女性をと王家は強く望んでいて、人事関連をも束ねる文官として陛下に信任の厚い父、デュトワ侯爵の娘である私は何かにつけて都合が良い。
今はまだ、殿下が十六歳という年齢であるからか、二つ年上である私の名は表立って挙げられてはいないけれど、この事実が露呈すれば、女性の方が年長であるという逃れられない現実を、奥ゆかしい淑女の逃げの一手として使えない程に、きっと王家は、王命で以てしてもとこの縁に勢いよく乗り出してくるだろう。

「リアーヌ様なら、縁談も星の数ほどにおありでしょうに、リシャール様がとんだ弊害とおなりですわね」
「そうかもしれません」

いつもの表情を崩さないように努めながら笑った私に、この場で最上位となる公爵令嬢は小さく頷いて次を采配する。

「ところで皆様、卒業式の夜の晩餐会(ソアレ)の事ですけれど…」

そして令嬢達の話題は美しい流れで次へと移り変わった。

風が秋の匂いを誘っている。
夏の終わりを映す空は、やがて温度を下げそうな雲の色を混ぜていた。

こうしている間にも、ひと時ひと時、季節はゆっくりと動いている。

やがて来(きた)る秋が過ぎ、冬を超えて春がくれば、私はこの学園を卒業する。
婚約者がいる令嬢達は、必要に応じてお相手の屋敷に行儀見習いに通い出し、もしくは母親について茶会や夜会をこなして社交を学ぶその時期に、私は一体何をするのか。
婚姻の話を躱し続ける私に対し、そろそろ父も、卒業を目途にして、明確な意思表示を求めてくる筈…。

あの方以外の、他の誰かとの――――――婚姻。
心の伴わない、お互いの立場と義務だけで成り立つ結婚生活・・・。

思うだけでも、喉が塞がれたように息が苦しくなってしまう。

そんな重苦しさから逃げるようにして顔を上げると、不覚にも、遠くにいるジェラルド殿下と目が合ってしまった。
周囲のうら若い令嬢達はお互いの牽制に夢中で、頭一つ飛び出た殿下の目線の行方には気づいていない。

木々がざわめく。
枝に止まった小鳥が幾度か囀り、木の葉の間を縫った光が地上に撥ねる。

視線を合わせていたのは、自然がたゆたう、そのほんの少しの時間。
ただそれだけの時間が、私にとっては何にも代えがたい幸福となって身に残る。

“リアーヌ嬢”

かつて一度だけ聞いた殿下の、まだ少年っぽさを残した優しい声がまるでそこで囁かれたかのように蘇る。

殿下――――――。

この想いが音になるのなら、どんな鳥の囀りにも、私の声は、劣りはしない。
けれど、

“――――――心配なさらないで”

これは、殿下への言葉であり、私に言い聞かせる言葉でもある。

“私は、あなたの自由を奪う存在には、これからも決して成り得ません”

誓いのように胸中で呟き、私は、儀礼的でしかない小さな会釈を、殿下の赤黒い眼差しへと送り込んだ。

 

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