「別れ――――――?」
フランシーヌの言葉に、僕は呆然となった。 "僕の光" そんな想いで届けさせた黄色のチューリップが、恋人達にとっては別れの意味を持っていたなんて…、 「そんな…、それは……」 あまりにも込めていた本意とは違う意味合いに、次の句が全く思い浮かばなかった。 そんな僕を見かねたのか、兄上が視線を泳がせながら、代弁して疑念を紡ぐ。 「それはつまり…実はジェラルドは振られた側じゃなくて、振った側になるという事か? シルベストル王も?」 「贈った花を根拠にすれば、お話は、そう言う事に、なります、わね…」 眉間に皺を寄せて考え込んだフランシーヌを、僕はぼんやりと視界の隅に捉えていた。 『シルベストル様』 眩いくらいの光を宿した瞳を細めて、無垢に微笑んでくれたロゼールと、 『殿下…』 初めて現世で再会した時、眩しい程の光帯びた髪を揺らめかせて、泣きそうな顔で僕を見つめていたリアーヌ。 捨てられたのは、傷つけられたのは、ずっと僕の方だと思っていたけれど、もしそれが、齟齬に端を発するものなら、彼女に手を伸ばしてもいいという事になるのだろうか。 明るい未来が見えた気がして、乾いていた口内に潤いが戻って来た。 早くなる鼓動と共に、期待はどんどん先走って大きくなる。 ロゼールとの事があるから、王家に入るという選択肢は、今生でもリアーヌには端から無いものだろうと決めつけていたけれど、もし過去で、生きる道を違えたそれが贈った花に起因するものなら、シルベストルはロゼールに避けられたわけではなくて、それはつまり、王子である僕がリアーヌに近づいても、困らせる事はないのかもしれない。 そう、結論を出してもいいのなら――――――と、胸の底に沈めていた望みが、野心めいて沸々と湧き上がってくる。 「ジェラルド。やめなさい、その顔」 「え?」 兄上の言葉に顔を上げると、 「まったくですわ。いつもの飄々としたお顔の印象が台無しです」 その隣からフランシーヌも呆れ顔で僕を見ていた。 しばらくは、そんな正面の二人の呆れを交えた視線を受け止めていたけれど、その内に、 「――――――だって」 色々と複雑ではあったけれど、その全てを凌駕してただ一色に束ねられた自分の想いは単純で、それを自覚した僕の口からはまるで子供のような「だって」が飛び出ていた。 「だって、凄く嬉しいんだ」 かつて、シルベストルが自ら望んだただ一人の女性であり、その六十年分の前世を負いながら生まれてきたジェラルド《僕》が、初めて自由に心を奪われた存在。 膨大な記憶はもちろん僕の肝心な武器になったけれど、本来、シルベストルの知識はジェラルド《僕》の人生には無用のものだ。 記憶がなければ、 学ぶ機会のない人生がこんなに空しいとは、経験しなければ理解出来ないだろう。 もちろん、シルベストルとしても知らない事はあったから、出会ったその時々は楽しむ事は出来ても、幼い頃から、基礎と応用の効く経験があり過ぎる僕にとって、その喜びはとても息の短いものとなる。 教師達は僕の事を、天才だ神童だと持て囃して興奮していたが、ただ経験として知っていただけの僕にとってそれは誉め言葉ではなく、けれどこの空しさを思うままに曝け出せば、"贅沢だ"と嗤う者が大半だろうと判っていたからこそ、口を噤んでいた。 僕の状況を理解して、敢えて言葉にはしなくても、人より成す歓びが少ないだろう シルベストルの幼少期をも知るフランシーヌが、義務として毒に馴らす間も家庭教師が傍を離れず、ベッドの上でまさに必死に勉強していたという、 何かに心を動かされるという機会を、生まれながらにして人よりも奪われてしまっている僕にとって、リアーヌは、シルベストルと 初めて薔薇の庭園で会った時、僕をシルベストルだと悟ったその瞬間の表情は、以降、僕がこっそりと眺めてきた"淑女としてのリアーヌ・デュトワ"とは違っていたように思える。 もし、僕が贈った黄色のチューリップに"望みなき恋"という意味を読んで、リアーヌがあの そんな未来が開ければ、きっと誰も知る事のないリアーヌを、僕の腕の中に閉じ込められるかも知れない。 「――――――父上に、話してみるかい? ジェラルド」 「え?」 不意にかけられた言葉を直ぐに解せなかった僕に、 「デュトワ伯爵は父上の信頼も厚い。そのご令嬢をお前の妃として迎え入れるという話なら、きっと飛びつくと思うよ?」 兄上がそんな誘惑を乗せてくる。 ほんの一瞬だけ、叶うかも知れない欲望への期待に胸を躍らせたけれど、 「…いいえ、兄上」 間をおいて、僕はゆっくりと首を振った。 「それでは、リアーヌの心が――――――本当の想いがどこにあったのか、きっと何一つ判らなくなってしまいます。どうか父上には、全てが決するまでご内密にお願いします」 それに呼応するようにフランシーヌも頷いてくれた。 「そうですわね。私も、ジェラルド殿下に賛成ですわ。王命となれば、殿下の御心を"望みなき恋"と解したリアーヌ様は、婚姻の意味を曲解しかねません。政略の為に、嫌々殿下が自分を迎え入れたのだと呑み込めば、笑顔の裏で、きっと涙に心を溶かしてしまいますわ」 「しかし、美しく聡明と評判のリアーヌ侯爵令嬢への婚姻の申し入れは国内に止まらず、外国からも多いと聞いているぞ? ほとんどの申し込みがデュトワ侯爵の篩ではねられてはいるようだが、国内はともかくとして、他五カ国の王家や公爵家からの申し込みは侯では除け切れないだろう。――――――それでも、最終的な判断は王家の意向として父上が下す事にはなるが…」 言葉を切って、苦虫でも噛んだような顔をして拳を唇にあてて考え込んだ兄上に、僕は怪訝に眉を顰める。 何を気にする事があるのか、僕の中にある図式からは解らなかった。 「エドワール殿下が気にしていらっしゃるのは、王妃様でいらっしゃいますわ」 苦笑したフランシーヌに、兄上は深く首を縦に振って顔を上げ、僕へと視線を向けた。 「そう。母上だ」 「母上?」 「ああ。――――――実は半月程前に、文官の一人が学園に籍をおく貴族令嬢の資料を持ってくるようにと母上に命じられたらしい。他でもない、未だ婚約者のいない令嬢のリストだ」 「!」 一気に膨もうとする"嫌な予感"を脳裏の一部で停止させ、齎されるだろう話の続きを無言で待った。 その流れを汲むように、フランシーヌが言葉を紡ぐ。 「そして私は先日、王妃様とのお茶会でそのお話をいただきました。リストにあるご令嬢について、学園内での振る舞いの事や、私から見た評価などを他愛なく話すようにとのご命令付きで」 「ここまで言えば、もう予測はつくだろう? ジェラルド」 「ええ」 まさか、母上が立ちはだかる事になるとは考えてもいなかった。 「リアーヌが、その候補に…?」 信じがたい事実の反芻を行った僕に、兄上が眉尻を下げながらの苦笑を見せる。 「母上のご実家であるロバト国には現在、主要公爵二家にリアーヌ嬢と齢の合う嫡子がいる。一人は既に二人の子を持つ愛人がいるから、その正妻への後押しなんてのは母上の好みではない。とすると、恐らく整えようとしているのは残った公爵家との縁談。女官を使わず自ら議事棟に赴いているらしいからつまり…、うん。かなり気合が入っているご様子だね」 「殿下。 「君こそ、人聞きが悪いよ? フランシーヌ。私は背中を押してあげているだけだ。急いだ方がいいよってね」 「物は言い様、ですわね」 歴史が感じられるやり取りというのは、この二人のような関係性で行われる、今のような雰囲気の事を言うのだろう。 さすがというべきか、フランシーヌがいれば、兄上の後宮が荒れる事はなさそうだ。 「それで、どうなさいますの? ジェラルド殿下」 唇に笑みを象ったフランシーヌの促しに、僕もゆるりと目を細める。 「これから直ぐに先触れを出して、同時に侯爵家に向かおうと思う」 「それはすごいね、ジェラルド。まるでこの秋に多い雷光のようだ」 「リアーヌに嫌われていると思うからこその小心だったのです。想いの糸に繋がる望みがあるのなら、僕に躊躇する理由はありません」 楽しそうに笑う兄上に応えて、僕が椅子から立ち上がった時だった。 父上からの使者が、僕達兄弟にと召集の意を伝えに来たのは。 二百年前とほとんど変わらない中央宮殿の接見の間。 かつてシルベストルが座っていた玉座に身をおいて僕を見下ろしているのは、現コルベール国の王であり、僕の父だ。 「――――――僕が…あ、いえ」 言いかけて、掠れしまった声を一つの咳払いで誤魔化してから、一人称を言い換える。 「私が、帝国カーリアイネンに、でしょうか?」 「ああ」 「…どのような趣で?」 現時点で、主国カーリアイネンに我が国の王族が赴いてまで挑まなければならない問題は無かった筈だ。 第三王女である僕より三つ年下で十三歳の妹ジェルベーズが帝国の皇太子殿下に正妃として嫁ぐ事は決まっているが、それは成人を迎える三年後の事。 「私に、何かお役に立てるような事があるのでしょうか?」 「まあ、行ってみるだけ行ってみろ」 全く答えになっていない言葉に、兄上が意向へと追い縋る。 「陛下。ジェラルドはまだ成人したばかりです。特に主旨がないのであれば、私でも良いのでは?」 「お前は既に婚姻統制において婚約者がいる身だ。参加資格はない」 「!」 その言葉が意図する事に、僕も兄上も瞬時に気が付いた。 「――――――父上、婚姻統制により、妹ジェルベーズのカーリアイネンへの輿入れが決定した時点で、第二王子である私は自由に妃を選べると、先日、父上から直接、そうお言葉を賜った筈です」 「解っている」 「父上?」 「控えよ。ここは私室ではない」 広い謁見室のところどころ配置されている武官文官を示して低く言い放った父上に、僕は改めて礼をとった。 「失礼いたしました。――――――では陛下。私に、花嫁を探しに行けというご命令なのですか?」 「そう大仰な事でもない。…まあ、皇女に気に入られればそれを断るのはかなりの策が必要になるだろうが」 「皇女…?」 兄上の顔色が微かに悪くなる。 「陛下、ジェラルドのお相手は帝国の姫という事ですか?」 「今は公爵となった皇太弟のご息女だ。どういういきさつかは明らかではないが、皇后陛下がいたく可愛がっておられたらしく、後宮の奥深くでお育ちになったとか。帝国は十八を成人としているから、それを機に後宮から出す事になったそうだ」 「なるほど。それで引き受け先を探して、各国に触れが?」 「ああ」 短く応え、肘掛けに頬杖をついた父上の表情は、少し不愉快さを混ぜている事に気づく。 僕も兄上も、少し出方を待ってみようと口を結んで時を待った。 端に控えていた従者を近くに手招き、葡萄酒で喉を湿らせた父上が、漸く重そうに口を開く。 「…身分は問わぬ、条件は皇女を限りなく幸せに出来る可能性を持つ者であればと、そのような条件だったから、我がコルベールは貴族から候補を募り、ようよう決まりかけていた矢先に、アヴァティの馬鹿が第三王子を挙げてきた」 「まさか」 兄上とほとんど同時に僕も理解した。 どうやら、この話を僕にすること自体が父上の本意ではなかったらしい。 十八歳の皇女に見合う年齢の、未だ婚約をしていない王子が存在しているのはそのアヴァティ国と我がコルベール国だけ。 アヴァティがその王子を出して、コルベールがそれを横目に貴族を推挙して終わる事は面目的に難しい。 それと同じく、他の国も爵位を十分に考慮しなければならなくなってしまった。 「元より、皇女を娶る事で得られる利権の提示はなく、相思相愛での縁をと公言して願っていた皇后陛下にとっても、これは予想しなかった展開だろう。恐らく、今回の見合わせは茶番で終わる」 「それはまた…、随分と空気の読めないお方がいらっしゃるものですね」 「全くだ。お前も、あのような愚かな王にはなってくれるなよ」 「私は大丈夫ですよ。私が、というよりも、ジェラルドをはじめとする優秀な周りの者達が、きっとその愚行を諫めてくれるでしょうから」 「その通りだな。周りが無能なのか、主格が無能なのか…アヴァティからは、暫く目を離せぬ。――――――というわけだ、ジェラルド。行って適当にあしらってくるが良い。もちろん、そなた自身が皇女を気に入って手に入れたいと望むなら、それはそれで良い」 王である父上にここまで言わせて、その任を辞退出来るほど、僕も空気が読めないわけじゃない。 「――――――ご下命、確かに承りました」 こうして僕は、何か月もの間、コルベールを留守にする事になった。 |