一見不規則に並べられたように見える薔薇の垣根は、知る人ぞ知る、男女の密会にはこれ以上ないロマンチックな
その配置は実に計算されていて、行き着いた垣根の向こうにもしも人の気配を感じれば、顔を合わせなくても引き返す事は出来るし、誰もいなければ先客としてその死角を存分に活用出来る。 頑丈な塀に囲まれ、警備が厳しい王宮内ではあるけれど、僕達王族が住まう宮殿からは十分な距離のあるこの薔薇の庭園は、茶会や夜会が行われる際は遊覧区画として開放されていて、正式に招待された人間であれば、普段から王宮に縁の無い者達も自由に立ち入りをする事が可能だ。 王宮の主である父上は、"秩序さえ守られていれば"という方針で目溢しをしているらしいけど、かつてシルベストルだった時は、どれだけ守りを固めたつもりでいても、間諜や刺客は入り込んでいたし、その度に血の匂いは漂った。 あれから二百年。 大陸六カ国がカーリアイネン帝国の名の下に統治されているからといって、危険がゼロになったわけじゃない。 前世の事を打ち明けた時からそう懸念していた僕の頭を、兄上が撫でながら微笑んだのはそう遠くない日の事だ。 『ジェラルド。もちろんその脅威は 解っている。 解っているのに、同じコルベールという国でありながらも違いすぎる世界観に戸惑い、過去と現実が混乱を誘うように交ざる時がある。 でもそれは、僕の中だけの違和感だ。 ただ僕が、漠然と時の流れの狭間で迷子になって、不安に煽られ、辺りを見回しているだけの事。 そして、心細くなったその時に僕が探してしまうのは誰の姿なのか。 言葉にしなくても、僕の中には彼女の存在しか息づいてはいないとは、もう溜息が出る位に明確で、例えばこんな風に、手繰れそうな糸を見つけた時、僕の胸は焼けるように痛みを伴う。 まだ大人ではない身の軽さを活かして薔薇の垣根を過ぎる毎に、か細く、胸にふわりと落ちてくる優しい音色は近くなり、それに後押しされた期待は鼓動と共に高まった。 懐かしい音色を紡ぐのは、かつて、ロゼールの口から紡がれたものよりも少し低い声。 ロゼールの声が澄んだ風のような囁きなら、これは樹木の間から零れる暖かな光。 温度のある光だ。 『ロゼール…?』 まさかと思いながらも、その名が口をついた。 この垣根を曲がれば、そこに誰かがいるのは確実だ。 シルベストルの姿で、垣根のこちら側で転寝をしながら、この子守唄を何度も聞いた。 バルネヴェルトとの国境にある町に伝わる、愛しき幼子の未来を讃えるその歌は、早くに亡くなった母からの贈り物だったと、そう言っていたロゼールの想いは、宮殿で会うようになってからは、シルベストルに対する慈愛と、幼くして命を落としたアシルへの追悼の意味を含むようになっていた。 この歌は、どうだろう…? どんな思いが込められているのだろう。 近づく僕の気配に気付いた様子もなく、子守唄はまだ続いている。 同じ歌だからといって、必ずしもロゼールの生まれ変わりだとは限らない。 似たような子守唄はバルネヴェルトに隣接する地方にはたくさんあるし、――――――特にカミュの土地を視察の名目で訪れた際に、国境近くの孤児院で耳にした歌には驚いた。 その歌詞は、離れ離れになった子を慈しむ母親の愛を綴ったものにまったく変わっていたけれど、メロディはほぼ同じだったからだ。 でもこの歌は…、 『……』 間違いない。 ロゼールが歌っていたものと全く同じ歌詞だ。 動悸を抑えつつ、垣根からそっと視線を覗かせる。 "九つ年下の幼女" "まだ幼くとも、辺境の地に攫って囲い、思うように育てるのも…" 様々な夢を乗せて探し出した歌声の主は――――――、 『…ぇ』 陽を避けるように設置されている 『…ロゼール?』 声量を抑止できなかった僕の呟きは、か細くも美しかった懐かしい旋律を止めた。 『え?』 反対側の胸を飾るのは今夜デビュタントの令嬢の証である、コルベールの国花である白百合が中心となったコサージュ。 ドレスはもちろん既定の白だけど、所々に添えられた銀色の刺繍が、まるで果てしなく広がる深雪の雪景色を思わせて、とても幻想的で美しいシルエットだった。 そして、何よりも目を惹くのがその顔立ち。 まだ少年の域を出ない僕の手でもすっかりと包んでしまえそうな小さな顔に、バランスよく配置された目鼻と、魅力的というよりは理知的な印象が強い唇。 長い睫に影を落とされた眼差しは、この夕暮れが濃くなった世界でも、宝石のような輝きを灯している。 ジェラルドとして僕が出会ってきた各国の王女やご令嬢達はもちろん、シルベストルとして妃に迎えてきた何百人の女性を競わせても、きっと誰も敵わない。 一目見ただけで、こんなにも心を揺さぶるなんて――――――。 『シル…ベストル…さま…?』 震える声が、かつての僕の名を呼んだ。 ロゼールとはまったく違う声なのに、その躊躇ったような言い方の癖は、かつてを思い起こさせるには十分で、 『ロゼール…』 やはりと思うのと同時に、何故だと運命に問う。 『僕…私は、ジェラルド・コルベール』 ほとんど立ち尽くした状態でそれを告げると、彼女はハッとしたように 『わ…わたくしは、リアーヌ・デュトワと申します。…殿下』 デュトワ…。 『膝を…折らないで、リアーヌ嬢』 『ですが…』 『…誰も、見ていない』 『…』 『リアーヌ』 『はい…』 躊躇いがちに背筋を伸ばしたリアーヌは、やはり僕を見下ろしている。 ロゼールを見つけられたなら、この腕の中に大事に囲い、今度こそ愛し抜きたいと願っていたのに、 『…』 僕の手は…この両腕は、彼女を掴むにはまだ幼すぎる――――――。 『二つ、年上なのだな…』 今夜デビュタントを迎えるのなら、そういう事だ。 リアーヌが小さく頷いて肯定するのを待って、僕は精一杯の笑みを浮かべる。 『会えて嬉しい』 『…殿下…』 今にも泣き出しそうに顔を歪めているのは、僕に対する戸惑いなのか、それとも、前世と同じように、関わりたくなかったと願っていたからか。 どちらの答えを求めるにしても、今の、 『少し、時間をくれないか』 『…はい』 今にも消えてしまいそうな返事の後、一礼して去っていくリアーヌを、僕は目で追う事もせずにやり過ごす。 この地から、太陽が隠れる様は薔薇の垣根の影の変化に映し出され、まるで心に布が覆い被さるのを現した景色だと、僕はぼんやりと立ち尽くしていた。 その日の、デビュタントを祝う夜会で、自分が王族の一員としてどのように振る舞ったのかを僕は殆ど覚えていない。 ただ、兄上がリアーヌと踊ったシーンだけは、それはもちろん、デビューした令嬢達全員を祝福する一興に過ぎないけれど、王族の末席からそれを食い入るように見つめていた僕自身の事を、随分と鮮明に記憶に焼き付けていた。 薔薇の庭園では、確かに僕を見下ろしていたリアーヌのショコラ色の眼差しが、頭一つ分背の高い兄上を見上げている事に無性に悔しさを思ったあの時間は、思い返しても何かが拭えない。 どうして、僕の方が年下なのか。 いかにロゼールを精神的な慰めとしていたからといって、年齢を逆転させる要素としては不確かだ。 『ジェラルド殿下』 ほとんど逃げるようにして王宮に上りかけていた僕を、その途中の廊下で聞き知った女性の声が呼び止めた。 王族に対してそんな行動がとれる人間は少ない。 間違いなく彼女だろうと覚悟を決めて振り返ると、そこにはやはりというべき令嬢、真っ白なドレス、その胸の白百合が眩しい、パジェス公爵の令嬢、フランシーヌが立っていた。 薄茶の真っすぐの髪と、目尻が上がったきつめの表情が良く似合う、端正な顔の持ち主でもあり、そして今、僕がもっとも会いたくなかった人物でもある。 『何という情けないお顔をされているのですか? ジェラルド殿下』 『…フランシーヌ嬢。僕は疲れている。話があるなら後日にしてもらいたい』 滅多に使わない権力というものをチラつかせた物言いは、しかしフランシーヌを別の意味で刺激したようだった。 『殿下。私を誤魔化そうとしても無駄ですわ。そのお顔…まるで初めて私の存在に気づいた時と同じですもの。もしかして、見つけられたのではないですか? ――――――ロゼールを』 我がコルベール国筆頭公爵家令嬢であるフランシーヌは、兄上がご正妃を迎えた後に、側妃として召される事が内々に決まっている令嬢であり、 『フランシーヌ…』 『そしてその見覚えのある情けないお顔は、まさかもう振られてしまったのですか?』 息を洩らすように笑われて、僕は口を尖らせる。 『まだ振られたわけじゃない。…少し、時間が欲しいと言っただけだ』 『はい?』 フランシーヌが、両手でドレスを抓まみ上げて足をさばき、僕の方へとにじり寄って来る。 『待って欲しいと? あなたが? ロゼールに?』 『…ああ』 『それはもしや、殿下の仮説通りにロゼールはまだ五つの齢で、さすがに恋人候補にも出来ないからですの?』 『…いや…年齢は、僕と二つしか変わらなかった』 『なら問題はないのでは?』 『二つ…年上で』 『まあ、私と同じ年なのですか? では、本日のデビュタントの面々からロゼールを見つけたのですね?』 『ああ…』 『何という歯切れの悪さ。…もしや、殿下のお好みではなかったとか?』 『いや。過去と今を合わせても、あれほどに美しい人は見た事が無い』 そして、僕の事を詳しく知る一人でもあるフランシーヌは、その答えに目を丸くした。 『美しい――――――まさか、リアーヌ・デュトワ様ですか? 百年に一人と謳われている淑女の鑑として、このコルベールのみならず、他五カ国からも注目の御方ではありませんか』 『…ああ』 リアーヌ・デュトワ。 兄上の側近であるリシャール・デュトワの妹で、確かに幼い頃から美しい令嬢だと評判だった。 噂は耳にしていたけれど、ロゼールの事と、王宮の中でのバランスの良い立ち位置の確保に必死だった僕は、そういった話は聞き流していたのも同然だったから。 『驚きましたわ…』 『僕もね』 『それで? リアーヌ様とはお話になったのですか?』 『ああ』 『…リアーヌ様は? お気づきになっていらっしゃいました?』 『ああ。シルベストルの、名を呼んだ』 『それからどのような展開を経て、今の殿下のお顔になるのです?』 『少し、情けない態度をとってしまったと反省しているからだよ』 『では、やはり殿下が、振られたのですね?』 『違う。まだ振られてはいない!』 まだ、という言葉に反応したのは、それを自ら口にしてしまった僕だけじゃなく、フランシーヌもだ。 『――――――それは、振られそうな兆しがあったと、私の耳には聞こえるのですが?』 『…違うと言った。あの時は、冷静になる時間が欲しかっただけだ。僕の…心が』 『殿下の…お心が?』 続きを口にしろと、フランシーヌの語尾と眼が、僕の顎下を視えない指先で撫でては、視線で攻撃をしかけてくる。 『殿下?』 令嬢とは思えない、鋭い眼光で促されて、僕は観念して白状した。 『背が・・・』 『はい?』 『僕の方が、リアーヌよりも小さかったんだ』 『・・・ご冗談ですわよね?』 『・・・』 『本当なのですか?』 それは、背が低かった事が――――――というわけではないだろう。 そんな理由で、時間もらったのかと、含んでいる。 『殿下?』 片眉が険しく下げられていた。 僕は半歩下がった状態でその視線を無理に躱す。 『女性のあなたには判る筈もない。これは、男としての矜持の問題だ。シルベストルの時には、彼女を抱き締めても余る程の男の身体をしていたのに、今の僕の頭上は、リアーヌに撫でられかねない位置にある』 『殿下・・・』 白目に近い眼差しの、深刻な呆れ顔を向けてくるフランシーヌに、僕は必死になって言葉を続けた。 『大丈夫だ。こんな些細な事。落ち着いて僕とシルベストルの感情を分類して整理すれば、全てを悟った状態で、ちゃんとリアーヌと正面から向き合える』 『…だといいのですけど』 呟いたフランシーヌの言葉の重さを知るのは、数日後の事だった。 |